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森嶋通夫「なぜ日本は没落するか」


森嶋通夫は、イギリスと日本を比較しながら、日本社会の硬直性のようなものを指摘しつづけた。かれは80歳まで生きたが、死ぬ直前まで旺盛な執筆活動を行い、日本の未来を憂えてみせた。その森嶋が「なぜ日本は没落するか」というショッキングなタイトルで、未来の日本が直面するであろう悲惨な状態を予言して見せたのは、1999年、死ぬ四年ちょっと前のことである。これを読むと、森嶋の日本に対する深刻な危機意識が伝わってくる。

森嶋はこの本の中で、2050年の日本がどうなっているかを予言している。結論から言うと、よほどのことが起こらない限り、日本は確実に没落する。その根拠として森嶋は、日本人の国民性のようなものをあげる。その国民性が変らないなら、2050年の日本は確実に没落する。そしてその国民性が変る見込みはほとんどない。だから日本が没落する確立は非常に高いと言うのである。

森嶋は、国力は国民性によって決まる、と考えている。国民が想像力に富んで進取の精神が旺盛ならば、国力も高まる。一方国民が想像力に乏しく惰性に流れておれば、国力は弱まる。そうした国民性の大部分は教育によって決まる。だから教育を充実せねばならぬというのが、森嶋の主張の要点である。

2050年といえば、森嶋がこの本を執筆した時点からほぼ半世紀の後である。半世紀も後のことを今から予測できるのかという疑問に対しては、森嶋は、かなりの確立で予測することができるという。というのも、半世紀後に日本社会をリードしている人々は、大部分が現在生きている人々である。だからその人々の資質が判っていれば、その人達がリードしている半世紀後の日本の姿を予測できるというわけである。

半世紀後の日本をリードしている人々は、現在の青少年にあたる。その青少年たちの資質がわかれば、将来その人達がリードすることになる日本の姿も、かなりな確立で予測できる。その予測を手短にいうと、半世紀後の日本は非常に弱体化し、その結果没落するだろうというものである。

森嶋の言う現在の日本は、1990年代の日本ということになる。その時点での日本を森嶋は、非常に否定的に見ている。そこは、当時の日本を肯定的に見る学者とは違うところだ。森嶋は当時の日本を肯定的に見る学者として、小宮隆太郎とアメリカの日本研究家パトリックをあげ、かれらが半世紀後の日本も今と同じように繁栄しているだろうと予測しているのを批判する。かれらの判断の分かれ目は、現在の日本をどうとらえるかにあるが、森嶋によれば、楽観論には大した根拠はないということになる。

現在の日本人は堕落したというのが森嶋の基本的な認識である。昔の日本人はそれなりに精神的な背景(儒教道徳が中心になる)を持っていた。ところが今の日本人の大多数は、なんら精神的なバックボーンを持たない。道徳観念もない。現在の日本人は精神的に崩壊している。その結果、経済の面では職業倫理が崩壊し、政治の面では腐敗が蔓延している。森嶋の言う職業倫理の崩壊とは、当時大スキャンダルになっていた銀行のモラル崩壊をいうのであろう。政治の腐敗についても、当時はさまざまな汚職事件が世間を賑わせていた。

なぜそうなってしまったか。その要因として森嶋は、教育の失敗と悪しき平等主義をあげている。日本の戦後教育は、子どもの創造性を伸ばすものではなかった。人間の値打ちというものは創造的なイノベーションの能力に左右される。その能力が欠けていれば、人間は凡庸になるし、そんな人間で構成されている国家も二流になる。

悪しき平等主義は、教育を含め至るところで確認できるが、森嶋が重視するのは企業社会におけるそれである。企業社会における悪しき平等主義は、日本的な「仲良しクラブ」としての特異な企業文化を生んだ。終身雇用と年功序列の組み合わせはその最たるものだ。森嶋はかねてより、年功序列型の企業経営を批判していた。この本の中ではそれを、福沢の言葉になぞらえて「親の仇」と呼んでいる。森嶋は悪しき平等主義に代えて、能力主義を推奨している。その能力のなかでもっとも重視するのはイノベーションの能力である。

森嶋は、社員丸がかえの日本の企業文化を、戦時中の軍国主義の反映したものだと考えているようである。それ以前の日本企業は、もっと解放的だった。そこへ軍国主義の文化が導入されることで、日本の企業はイノベーションに欠け、硬直的な体質に陥ってしまったというのである。そうした森嶋の見立てに対して、小生などは、違う意見を持っている。日本の企業というものは、かつて諸藩が担っていた役割を代替して持つようになった。かつての諸藩のように、家臣団たる社員を丸がかえし、ある種の運命共同体として機能している、というのが小生の見立てである。森嶋の言うように短期間で、それもいわばゼロから作られたものではない。

こんな具合に、森嶋の日本についての診断はシビアであり、その診断に基づいた未来の日本についての予言もショッキングなものだ。何もしないでいては、その予言は確実に実現するだろう。だから何か手を打たねばならない。そこに一縷の望みをかけるほかはないというのが、森嶋の危機意識の内容だ。

森嶋は、将来に向けての対策として、二つをあげている。一つは教育の改革、もう一つは政治的なイノベーションである。まず、教育の改革ということでは、森嶋は悪しき平等主義を助長するような制度を改め、いい意味でのエリート教育を提唱している。人間の能力に差があるのは自然の流れなのだから、能力に応じた教育を施すのが当たり前なのである。能力の高い子どもは、その能力を一層伸ばしてやる方向で教育する。そうすることでイノベーションの能力を持った人間が育成できる。将来の日本を救うのは、そうした能力の高い人間たちなのだ。

政治的なイノベーションというのは、国家の方向付けにとって持つ政治の役割に注目してのことである。森嶋の口癖のひとつに、経済はエンジン付きの帆船のようなものだというのがある。風がないときには自前のエンジンで進むが、その歩みはのろい。風が吹くと船の速度は飛躍的に速くなる。その風に相当するのが、政治的なイノベーションというのである。つまり経済の外側から働きかけて、経済の発展を加速するのが政治的なイノベーションというわけである。日本はこのイノベーションに決定的に欠けているが、それを養わねばならない。でなければ、日本は座して没落を待つことになる。

その政治的なイノベーションの内実として森嶋が提唱するのは、東アジア共同体構想である。これは、日本がリーダーとして東アジア諸国をまとめあげ、EUのような地域ブロックを作るというものだ。当時は、中国がまだ遅れていて、日本が強大な経済力を維持していたので、こうした構想にも、いくばくかの現実味があった。森嶋のこの構想は、戦前の大アジア主義を想起させもするが、大アジア主義がそれ自体で悪いわけではないので、森嶋の構想にはある程度の合理性がないわけではない。しかし森嶋本人が認めるように、対米従属体質が身にしみた日本においては、こうした構想は拒否されるのがオチだ。日本人は、アジアの隣人として振る舞うのをいやがり、欧米社会の一員として振る舞いたがる。自分を肌の黄色い白人と思っている日本人は非常に多く、またそうした日本人が今の日本をリードしているのである。

そんなわけで、森嶋の提言はいまだに実現していない。教育についていえば、かえって知識の詰め込みと機会の均等という名の悪しき平等主義がはびこっているし、東アジア諸国との関係は、悪化するばかりである。



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