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戦争は女の顔をしていない:スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの聞書き


スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは、ドキュメンタリー作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。彼女はまたノーベル賞を貰ったはじめてのベラルーシ人でもある。彼女の仕事としては、戦争体験についての聞書きとかチェルノーブィリの原発事故の後日譚などが有名だという。「戦争は女の顔をしていない」は、彼女の最初の仕事であり、また代表作となったものだ。

独ソ戦を戦ったソ連の女たちへの聞書き集である。独ソ戦では100万人もの女たちが従軍し、その多くが実戦に参加したといわれる。小生は学生時代に、独ソ戦を特集した写真集を見たことがある。戦場に臨む多くの女たちが映され、なかには死体になった女たちが映っているのを見たものだ。なかには乳房を剥ぎ取られた女の姿もあって、ショックを受けたものだが、この聞書き集を読むと、女たちが命をかけて戦った様子が如実に伝わってくる。とにかくすさまじいの一言だ。

1978年から1985年にかけて、500人を超える女たちから聞書きを行った、その記録である。女たちが語った言葉そのままに記録したということだ。短いものもあれば、長いものもある。共通しているのは、すべて自分自身で体験したことをストレートに語っているということだ。言葉が短くなるのは、言葉に出来ないことがあまりにも多いからだろう。

アレクシェーヴィチ自身は戦後の生れであり、戦争を直接体験したわけではない。だが、彼女の父親の家族が、かれ一人を除いてすべて戦争で死んでいた。だいたい、第二次大戦での死者数はソ連が最も多くて、2000万以上にのぼると言われている。その大部分が独ソ戦による。一口に2000万人というが、途方もない数字である。大戦が始まった当時のソ連の人口は、1億7000万人ほどであるから、一割以上の人々が戦死したということだ。だから、戦争被害は他人事ではなかった。誰もが身近に戦争で死傷した人がいた。

聞書きに応じた女たちは、独ソ戦が始まるとすぐに志願し、厳しい戦争を生き残った人達だ。多くはハイティーンの年代で志願している。看護婦や医師の見習い、食事・洗濯といったいわゆる女性らしい仕事をして背後を支えた人も無論いるが、前線の兵士として武器をとって戦った女性も多い。日本を含め大戦中の交戦国のなかで、少年を徴兵した例は結構多いが、女性を徴兵した例はソ連以外にはないのではないか。それほど独ソ戦は、ソ連にとって厳しいものだったわけである。

戦場における戦いのすさまじさと並んで、ナチスによる一般人への野蛮な殺害振りも語られる。証言者には従軍兵士のほかパルチザン部隊に属していた人々もいて、そういう人達の多くは、ナチスによって家族を殺された人が多かったのである。ナチスの一般人殺害の野蛮さについては、ニキータ・ミハルコフの映画「太陽に灼かれて」三部作がなまなましく描いている。そこでは、ナチスの兵士を一人でも殺した人間とかかわりのある村は、根こそぎ殺害されるのだ。多くの場合には教会のような建物に全員が押し込められ、火をつけられて焼き殺されるというものだ。そういう光景も、この聞書き集には語られている。

とにかく、ソ連の人々対するドイツ人の残虐振りには耳を覆いたくなるものがある。人間とはかくも残虐になれるのかと、すさまじい残虐非道ぶりが語られるのである。そのナチスの残虐振りに対して、ソ連のほうは受身一方を迫られる。基本的な原因は、スターリンにあると仄めかされている。ロシアの有能な人間はみなスターリンに殺されたので、ドイツとまともに戦う能力を当時の指導部が欠いていたというのだ。もっとも、そのスターリンを含めて、祖国への愛を感じている女たちがほとんどだ。彼女らは純粋な祖国愛から、自ら従軍を志願したのだ。

戦局の行方がソ連有利に傾いたのは、スターリングラードの攻防戦以降だ。この攻防戦は1942年6月から翌43年2月にかけて繰り広げられたが、ドイツ軍は80万人以上の死者を出して、それまでの勢いを失った。1944年になると、ソ連軍は敗走するドイツ軍を追ってベルリンを目指す勢いを見せる。証言者の中には、ドイツ軍への追撃に加わっていた者もいて、そういう人達は、かつてのドイツ占領地域を開放する一方、東プロイセンなどの地域に住むドイツ人に対して、かつて自分たちがドイツ人から蒙ったことに対する意趣返しを行う人もいた。証言者の中には、そういった自国側の蛮行に触れる者もいるが、多くはそれについては沈黙したままだ。やはり自分たちの汚点には触れたくないものだ。

この聞書き集の中でもっともショッキングなのは、命をかけて独ソ戦を戦った女性たちが戦後受けた仕打ちである。彼女らは、祖国をドイツのくびきから解放した英雄であるにかかわらず、戦後故郷に戻ると、ほとんど例外なく不合理な差別に直面したのである。それには女だてらに戦争ごっこをした人間に対するいわれのない偏見があったのだろう。中には家族にまで非難された女性もある。ある女性は母親からこんなことを言われた。「あんたのために荷物を用意してやったよ。出て行っておくれ。まだ妹が二人いるんだ。あんたの妹じゃ、誰もお嫁に貰ってくれないよ。あんたが四年間というもの戦争に行っていた、男たちの中にいたってことをみんな知っているんだよ」

この文章は、作者自身が自己検閲して削除した部分に含まれていたという。自己検閲したものはほかにもあって、それには女性たちが西側で目撃したことなどがある。そういうことは、ソ連当局が厳しく排除していたことがらなのである。東西の落差が明らかにされるからだろう。

全編は、ある女性の次のような言葉で締めくくられる。「戦後何年もたって空を見るのが怖かった。耕した土地を見るのもだめ。でもその上をミヤマガラスたちは平気で歩いていたっけ。小鳥たちはきっと戦争を忘れていたんだね」

なおこの本を日本語に訳した三浦みどりは、若くしてガンをわずらい、アレクセシェーヴィチがノーベル文学賞を受賞するのを見ることなく死んだそうだ。



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