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斎藤美奈子「文壇アイドル論」


「文壇アイドル」とは奇妙な言葉だ。命名者の斎藤美奈子はこの言葉を厳密に定義しているわけではないので、その中身がいまひとつ明らかではないが、どうも芸能界のアイドルを横引きしているらしい。芸能界のアイドルといえば、いわゆるミーハーたちの人気者で、その人気を芸能プロダクションや放送業界が盛りあげながら、そこからもたらされる巨額の収入を分け合うというような構図になっているらしい。だから業界の連中は金のなる木としてのスターの育成に余念がないし、スターはスターでミーハーの人気を獲得するのに余念がないというわけであろう。

こうした芸能アイドルを文壇アイドルに横引きすると、スターにあたるのが作家で、出版社が芸能プロダクション、取次ぎや書店など流通業界が放送業界ということになる。ミーハーにあたるのはとりあえずは読者であり、またアイドル作家の消費者ということになる。日本の文壇はこうした人々によって構成される、特異な業界あるは利益共同体というふうに定義できるようだ。

文壇アイドルの中心は、いうまでもなくスターとしての作家である。斎藤美奈子女史がこの本で取り上げるスター作家は八人。その八人について女史は、彼女独自の視点から迫る。その視点を彼女は、常識的な意味での作家論ではなく、「作家論論」のようなものだと言っている。どういうことかというと、作家の書いた作品そのものの価値を論じるのでなく、その作品なりそれを書いた作家自身なりについての、文壇の構成員からの反響を論じると言うのである。芸能アイドルの場合にも、芸能評論家というものがいて、アイドルの売り出しにそれなりの役割を果たしているが、文壇アイドルの場合には、専門の批評家に作家身分の人間まで加わって、かなり活発な批評活動が行われている。女史にとっては、作家本人を論じるよりも、そうした批評をとおして、世間の作家に対する反応を見るほうが面白いということらしい。

じっさい、いまや高名な文芸批評家の名声を獲得した斎藤美奈子女史の仕事のスタイルは、作家やその作品を正面から論じるのではなく、それが及ぼした世間の反響のほうを主に論じるといったやり方を通してきた。そうすることで女史は、単に作品の内在的な理解を得ようとするよりは、その作品やそれを生んだ作家を、社会全体の動きと関連付け、作家論の展開が時代の遷り変わりを反映させるようなものになることを目指しているようだ。そんなわけで女史の「作家論論」は、通りいっぺんの文学論ではなく、歴史・社会学的なクロニクルにもなっているわけである。

女史が取り上げた八人のうち、小生がまともに読んだのは村上春樹くらいなもので、あとは通りすがりに一読したか、あるいは全く読んでいない。上野千鶴子などは、露骨な性的スラングやエロ写真を本のカバーにしたヒッピーなやり方が気になって、当時物議を醸した「女遊び」などという本を読んだことがあり、「へんなおばさん」だなと感じたことを覚えている程度。立花隆は、ほぼ同時代人として名前は知っていたが、その本を読んだことはない。この男を女史はとんでもない性差別主義者と断定しているが、たしかに女が男より劣っているのは生物学的な構造からして当然のことだとうそぶくところなどは、森喜朗も顔色ないほどのひどさである。もっとも立花はなにも特異な例外ではなく、かれが生き抜いた日本の時代全体がそんなものだったのである。その時代のペースメーカーとしての立花を俎上にあげることで、女史は作家を通じた日本社会の文明的な特徴を論じているわけであろう。

そんなわけで、ほとんど読んだこともない作家ばかりが話題になっているので、退屈かといえばそうではない。むしろ非常に面白い。読み始めたらとまらないほど面白い。それはやはり、彼女独特のウィットと、それを読者に納得せしめる筆力の賜物だろう。彼女はわざとくだけた言葉遣いを駆使し、作家の弱点と思われるものを、ふんわりとことあげする。そのやり方は彼女が常々言っている「ほめころし」と「けなしあげ」の手法を多用したものだ。アクロバティックな批評と言ってもよい。

八人の作家は三つにグループ分けされ、それぞれ「文学バブルの風景」、「オンナの時代の選択」、「知と共用のコンビニ化」という表題が付されている。文学バブルには村上春樹のほか俵万知と吉本バナナが含まれている。村上は後二者よりも一世代(以上)年長だが、同じ時代の雰囲気を共有しているという点で、一つに分類されたようだ。その村上を女史は、八人の中ではもっとも高く評価しているのだが、それでも手放しではない。むしろ皮肉な調子が込められている。それは、村上が文壇から手放しで絶賛され、かれを表立ってけなすものがいないからだ。そうした意味で村上は、文壇バブルの象徴だと言いたいわけであろう。バブルの中に入り込んでいる人間は、バブルそのものを非難することはない。そうした時代の雰囲気を村上はうまく利用した、というのが女史の見立てである。彼女は村上文学そのものには言及することがない。文学の内実より、それをとりまく外皮のほうが彼女の関心を充たすのだ。

この本の中でもっとも面白いのは、「オンナの時代の選択」と題して、林真理子と上野千鶴子を対比させて論じている部分だ。色々なことを言っているが、単純化して言うと、林のほうは男社会からバッシングされ、上野は逆に受け入れられた。その理由は、林が田舎者の成り上がりだったのに対して、上野はエリートの出身だったことだという。日本の男社会は、田舎者の成り上がりを不愉快に思う一方、エリートのお嬢さんには寛容だと言いたいわけであろう。だからといって女史が、林のほうを贔屓にするかといえば、そうではない。上野のほうに軍配を上げているのである。それには、林が成り上がるたびに曽野綾子化していったのに対して、上野のほうはウマンリブの姿勢を貫徹したからだろう。

曽野綾子化というのは、出世することによって自分を上流階級に一体化させ、その高みの立場から愚民どもに説教を垂れたがるようになる傾向をさしているらしい。こういう手合いの女性は、21世紀になっても絶えないばかりか、ますます繁茂する気配すら感じさせる。



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