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森本あんり「異端の時代」


正統と異端の問題は、西洋の神学ではおなじみのテーマなので、キリスト教神学者である森本あんりにとっては、専門分野に属する事柄だといえる。しかし森本がこの本「異端の時代」で取り組んでいるのは、単なる宗教上の問題ではなく、広く社会的な問題としての正統と異端である。そうした問題を森本が取り上げたのは、トランプの登場に象徴される異端の普遍化といった事態だ。森本はアメリカの歴史の底流としての「反知性主義」に深い関心を持っており、トランプもその反知性主義の嫡出子だと捉えるわけだが、その反知性主義が今日では、全体に対する批判というにとどまらず、全体を僭称するようになっている。いわば現代的な意味での全体主義をトランプが体現していると言うのである。そこに森本は民主的な社会にとっての危機を感じ、「正統と異端」という古くて新しい問題を、森本なりの視点から取り上げたということらしい。

森本は、正統と異端についての丸山真男の言説を取り上げることからはじめ、キリスト教の歴史を振り返ることなどを通して、正統と異端についての森本なりの定義を試みる。それをごく単純化していうと、聖書などの聖典や聖職者による教義が正統を根拠づけるのではなく、正統がそれらを基礎付ける。しかしてその正統そのものは、人々の間に広く共有されている信念に根拠を持つ。そうした信念が実体化したものが正統を形成するのである。そのような信念は、大多数の人に受け入れられるためには柔軟性を帯びていなければならない。あまりに厳格な規律はえてして守られ難いものだ。だから、その信念は一定の許容範囲というべきもの(宗教的な枠組み)を持っている。その許容範囲内に収まっていれば、多少の独自性は認められる。ところがその枠組みから大きく逸脱して、枠組みそのものを否定するようになると、それは異端として厳しく排斥されるのである。

キリスト教の歴史は、正統と異端のせめぎあいの歴史だった。何が異端とされたかは、その時代の人々の正統性感覚に依存していた。その感覚に合うものが正統性を形成し、合わないものが異端とされたわけである。だから、正統と異端の関係は、絶対的なものではなく、相対的・流動的なものだった。時代の流れに応じて、人々の正統性感覚が変化し、それにともなって、正統と異端の関係も変化していくというのが森本の見立てである。

正統と異端についてのこうした定義を適用して、森本は今日における正統と異端の問題を考察する。森本の見立てによれば、現代は「異端が普遍化された時代」ということになる。それには個人主義の宗教化といった事態が働いているという。個人主義が社会に蔓延すると、個人の数だけ信念が存在することとなり、全体が共有できる信念体系が存在する余地がなくなる。その結果、正統性の根拠が崩れる。異端というのは、正統性と相互関係にあるから、正統性が成り立たなくなれば、従来的な意味での異端も成り立たなくなる。だから、現代社会は正統と異端の対立が根拠を持たなくなった時代といえるのだが、森本はあえて、「異端が普遍化された時代」と呼ぶのである。

現代にも異端があるとして、その特徴は何かと言えば、社会の単なる部分を占めるに過ぎない信念が、全体を僭称することだと言う。トランプがその典型で、かれは相対的に優位な支持を受けているに過ぎないにかかわらず、自分は全体を代表し、したがって自分のやることは全能なのだと主張するとき、それは全体主義以外の何者でもないと森本は言うのである。

丸山真男への言及から議論を始めたように、森本は、正統と異端の問題を日本に当てはめるとどうなるか、ということに強い関心を寄せている。丸山は、少なくともキリスト神学的な意味での正統と異端の関係は日本には存在したことがなかったと考えていたが、それは森本も同様のようである。日本には、日本人全体が共有する信念体系のようなものはなかったから、正統性の感覚が形をとったということもなく、したがって異端の生まれる余地もなかった。日本では、宗教と政治とは曖昧な関係にあって、相互に緊張関係に立ったこともなく、したがって宗教戦争のような事態が起きたこともなかった。唯一の例外は、これは森友が言及しているわけではないが、維新前後の廃仏毀釈運動だったが、これは宗教戦争というよりは、神道勢力による政治的なヘゲモニー確立への野心がもたらした、いわば内輪もめのようなものといえる。維新政府は、この廃仏毀釈運動に介入して、神道に肩入れしたわけだが、それはかれらに正統性への自信がなかったからで、その空隙を神道で埋めようとした。そうした正統性への希求は、明治憲法体制にも反映していて、明治憲法体制というのは、人工的に作られて庶民に押し付けられた、いわば上からの権威創造だった。そういうものは、森本の定義によれば、正統性とは言えない。

というわけで、日本という風土にあっては、正統と異端という問題設定そのものが、あまり意味を持たないと言えそうである。そこで小生などは、同時代の右翼勢力が追及している憲法改正運動について考えざるをえない。憲法というものは、森本的には国民全体の信念体系を明文化したもののはずだから、その改正は当然、国民のなかから自発的に生まれてくる動きに基づくものでなければならない。憲法が国民を作るのではなく、国民が憲法を作るのである。ところが日本のいまの右翼勢力は、憲法を変えることによって国民を変えていきたいと考えているようである。かれらが言う「国の形」とは、国民に外部から押し付けられた枠組みであって、国民の内部から自発的に生まれてきたものではない。そういう意味では、上からの権威付けであり、欽定憲法としての明治憲法と異なるものではない。明治初期の日本人には、国民全体が共有できる政治的な信念が成熟していなかったので、お上がそれを上から与えてやるということには一定の意味があった。ところが今日の日本国民はそんなにナイーブではない。非常に緩やかながらも、憲法についてのある程度成熟した信念を共有している。憲法は、そうした信念を事後的に明文化すべき筋合いのものであって、一部勢力が全体を僭称する形で、上から押し付けるものではない。

以上、森本の本を手がかりにして、余計なことまで考えてしまった。



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