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堀込庸三「正統と異端」


西洋史学者の堀米庸三が書いた「正統と異端」を、キリスト教神学者の森本あんりは、「出版後半世紀以上を経た今もなお光輝を失わない古典的な名著である」と言って、絶賛している。小生もこの本を読んだ記憶があるが、詳しいことは忘れてしまった。そこで改めて読んでみた次第である。

「正統と異端」の問題は、キリスト教の成立以降、つねにまとわりつづけてきた問題だ。プロテスタントの確立につながったルターの宗教改革も、正統を独占するカトリックに対する異端としてのプロテスタントの闘いという形をとった。プロテスタントによる宗教改革は、もう一つの新しい正統を生み出したわけだが、多くの場合には、異端が正統にとってかわることはほとんどなく、正統の中に吸収されてしまうか、あるいは正統とは相容れないものとして、キリスト教の枠組みから排除されてしまうかのどちらかだった。森本自身は、正統と異端との関係は相対的なものであり、その間に絶対的な相違はないと考えている。その点は堀込も同様で、彼のこのテーマについての関心は、キリスト教という大きな枠組みの中で、正統と異端とがどのようにかかわりあってきたか、という点に集中している。彼が取り上げるのは、アリウス派とかグノーシス派といった、キリスト教会の外部に放逐されるべき、完全な異端といわれるものではなく、キリスト教内部での宗教刷新運動なのである。

堀込はこの本の中で、キリスト教会(カトリック)の歴史において正統と異端の問題が焦点化し、いわば時代を画するような意義を帯びた事件を三つあげている。紀元四世紀におけるアウグスティヌスとドナティストの論争、十一世紀におけるグレゴリウス改革、そして十三世紀におけるイノセント三世と聖フランシスの会見である。

アウグスティヌスとドナティストの論争は、腐敗した聖職者による洗礼等の、いわゆる秘蹟の有効性をめぐるものだった。ドナティストが、腐敗した聖職者による洗礼は無効であり、そのような洗礼は破棄されたうえで、あらためて清浄な洗礼がなされるべきだと主張したのに対して、アウグスティヌスは、聖職者による洗礼はその聖職者の人格等とはかかわりなく、神の恩寵によるものである。聖職者は神の手足として務めを果たすだけなのだから、その洗礼等も有効である。そういう立場から、腐敗した聖職者による洗礼等の行為は、「不正ではあるが有効である」とした。このように行為そのものに着目してその有効性を主張することを「事効論」という。それに対して、聖職者の人格を重視する主張を「人効論」という。アウグスティヌス以降、カトリック教会の主流派(正統派)は事効論の立場に、基本的には立ってきた。

基本的に、というのは、アウグスティヌスの事効論が、その後のキリスト教会の歴史の中で鉄の法則として貫徹したわけではなく、折につれて人効論が息を吹き返したからである。とりわけ、教会の腐敗・堕落が大きな問題になると、そのたびに、聖職者の資格が問題にされてきた。腐敗した聖職者の責任を追及することで、教会の浄化をめざす運動が繰り返し起きた。十一世紀のグレゴリウス改革はそのもっとも注目すべき出来事だった、というのが堀込の見立てである。グレゴリウスは教皇という立場から、カトリック教会の腐敗・堕落に立ち向かい、それを糾弾する方便として人効論を用いたのであった。それは正統の頂点たる教皇が、従来異端とみなされてきた立場に立ったということで、歴史の皮肉以外の何者でもない。グレゴリウスはそのことで、教会の浄化に成功したが、そのかわりに教会そのものの権威をある程度損なったことは間違いない。それを通じて教会内にはさまざまな軋轢が生まれた。従来、異端として頭から否定されてきた運動の幾つかは、教会の内部に吸収させざるをえなかった。教皇みずから人効論を称え、聖職者の腐敗・堕落を糾弾する運動に一定の理解を示さざるを得ない立場に、みすからを追い込んでいたためである。

十三世紀における、教皇イノセント三世と聖フランシスコの会談は、そうした流れの中で起こった。聖フランシスコとは、いわゆるアッシジのフランチェスコのことで、あらたな修道院運動を起した人だが、その説には異端の要素があって、一昔前までなら、異端として弾圧されるべきものであった。それがカトリック教会によって肯定されたことは、グレゴリウス改革がかかげた人効論の影響のためだと堀込は考える。

このように、カトリック教会の歴史の中で、アウグスティヌスによって確立された、秘蹟についての事効論的対応は、グレゴリウス改革を経て、人効論へと揺れ動き、そこに正統と異端との境界をめぐり、不安定な状況が生じた。そのようなカトリック側における不安定な態勢が、やがてルターの批判の的となり、宗教改革をめぐる巨大な紛争へと発展していった、というのが堀込の基本的な見方のようである。

という具合に、この本はカトリック教会の歴史における正統と異端というテーマに勢力を集中している。その議論はしたがって、かなり詳細になりがちである。堀込は歴史学者であるから、史実を踏まえて議論するという姿勢に徹している。だから何か一つの事柄にコメントする場合にも、かならず史実の検討を忘れない。それが、西洋史学に専門的な興味を持たない読者には煩瑣に聞こえる、ということはある。だがそうした煩瑣を厭わないところに、学問の土台は成り立ちうる、といった堀込の意気込みは伝わってくる。



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