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内田樹、鈴木邦男「慨世の遠吠え2」


対談本というのは、だいたい一回限りで、二回出すのは珍しいのだそうだ。内田樹と鈴木邦男は、その珍しいことをやった。よほど相性がいいのだろう。かれらの相性がいいのには理由がある。まず、反米愛国という点で一致している。それに加えてこの二人は、反共でも一致している。これだけ一致していれば、相性が悪いはずがない。内田は左翼で通っているし、鈴木は「新」がつくが右翼で通っている。ふつう相性がよくない左右がここまで仲良くできるのは、やはり以上三つの共通項があるためだろう。

例によって内田が対談をリードしている。だから内田が日ごろ抱いている思いにそって展開されるといった体裁だ。話題は多岐にわたっているが、ここでは特に印象的ないくつかの題目について述べてみたい。

まず、政治家安倍晋三への厳しい批判。この対談がなされたのは2016年の後半で、その頃は安倍政権の全盛期であった。安倍政権は、盤石な政治基盤を活用して、安保法制の練り直しをはじめ、かなり強権的な姿勢を示していた。内田や鈴木のような政治に敏感な人にとって、そんな安倍を批判したくなったのは自然の勢いというものだろう。

安保法制問題は安倍の好戦的な性格をよくあらわしていると内田は言う。安倍はとにかく戦争というものをしたいんだと言っている。戦争をして外国人を殺し、日本人が死ぬ。そのことで国民を熱狂させ、国民を好戦的にしていく。国民が好戦的になれば、憲法改正も容易だ、そう考えているのだろう。鈴木のほうも、安倍のやり方に懸念を持っていて、この調子だと国民が好戦的になるのではないかと杞憂している。

安倍の政治家としての資質には二人とも強い疑問をもっている。とりわけ安倍が、自分の発言に責任を持たないことを批判している。安倍は言うことがころころ変わり、発言相互に論理的なつながりがない。昨日言ったことと全く違うことを今日は平然という。それは安倍が論理的一貫性ということを軽視しているからだ。こういう相手には何をいっても理屈が通じない。それは批判者にとってやりきれないことである一方、安倍自身は無敵でいられるわけだ。

その点では橋下某も同じだという。橋下も、論理的な首尾一貫性などはチリほども重んじていない。昨日と違うことを今日言ったことについて、そんなに問題にするほうがおかしい。今自分が言っていることが、自分の本意なのだから、それを素直に受け取ればよいのだ、という態度だ。こういう態度はやくざと共通していると内田は言う。警察がやくざを取り調べしていて、以前言ったことと違うじゃないかと突っ込むと、それはなかったことにしてくれと、平然と言い放つ。それと全く同じことを、安倍や橋下はやっているというわけである。

安倍は、自分を支持してくれるものが本当の意味での日本人であって、そうでないものは日本人として扱う必要がないと考えている。だから、中東で日本人がテロリストに人質に取られたとき、平気で見殺しにすることができた。これは、人質問題で福田元首相が見せた人命重視の態度と比較して実に冷酷である。問題は、そうした安倍の冷酷さを、国民が当然と受け取っていることだ。それはひどいなあ、と鈴木も言う。日本人を救うのが政府の役目なのに、それを放棄するのでは国家の意味はない、と言うのだ。

これはある種の暴走といえる。その暴走をとめる抑制の論理がいまの日本にはないと内田はいう。今の日本では、(安倍のような)バカが威張っている。それを内田は「バカが威張れるシステム」といい、そういうシステムを作ってしまった日本という国を嘆いてみせるのである。

そんなわけだから、安倍のやることはめちゃくちゃだ。なかでも対米従属の深化は、日本という国家の自律性を全く度外視したものだ。安倍はアメリカに命令されたことはなんでもやる。それは事実上開発独裁と異ならない。安倍は後進国の独裁者と全く変わらないというわけである。たしかに、国家として未熟な国を後進国と定義するならば、自律性を放棄した日本は後進国というほかはないであろう。

日本の政治家は安倍のようなおっさん政治家が牛耳っており、女性政治家が非常に少ない。たまに目立つ女性政治家がいても、男以上に男っぽいふりをしている。そうでないと、日本とくに自民党支配下の日本では一人前の政治家と見なされないからだろう。たとえば、片山さつきとか高市早苗とか、自民党の女性政治家はみんな過剰に「おっさん」を演じている。女性がおっさんを演じるとは面白い。そういうのを「おっさんばあや」というのだろうか。

こんな具合に二人の対談は、安倍政権下で劣化した日本の政治を憂えるものとなっている。それには、内田にしろ鈴木にしろ、俺は国士だという意識があって、その意識が腐敗した日本の政治に強い批判を促すのであろう。




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