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中沢新一「緑の資本論」を読む


中沢新一の著作「緑の資本論」は、2001年の9.11テロに刺激されて一気に書いた文章を集めたものだ。それらの文章で中沢が言っていることは、「圧倒的な非対称」が暴力を生むということだ。それは、強者の側からは弱者への一方的な攻撃としてあらわれ、弱者の側からは絶望的なテロという形をとる。そういう関係について中沢は、弱者の側に立っているようである。

今日の世界で強者の側に立っているのは、アメリカを先頭としたいわゆる欧米諸国であるが、それはキリスト教と結びついた資本主義を体現した文化をもっている。その強者に対して、弱者にはいろいろなものがあるが、中沢がここで取り上げるのは、イスラム文化である。イスラムは、欧米諸国によってはテロの温床のように扱われて毛嫌いされているが、実は、イスラム教というのは、本来平和な文化をもたらすものであるはずだ。それがテロと結び付いたのは、「圧倒的な非対称」の関係を背景に、欧米のキリスト教・資本主義的文化の諸国から一方的な抑圧を受けていることへの反抗なのであり、それについて中沢は、宮沢賢治を引用しながら、共感できるというのである。

宮沢賢治は、動物の人間への復讐というテーマを好んで取り上げたが、それは動物の立場に立ってみれば、人間との間の「圧倒的な非対称」のもとで、一方的に迫害されていることへの反抗なのだというのである。その動物たちと同じように、キリスト教・資本主義勢力によって一方的に迫害されているイスラム側が、絶望的な犯行の手段としてテロに走ったのだと中沢はいい、それについて共感できるというわけである。

中沢がイスラムに共感するわけは、いまやグローバリゼーションが進行するなかで、キリスト教・資本主義システムが世界を席巻し、それが世界にとって決して好ましくない影響をもたらしている、イスラムにはそうしたキリスト教・資本主義システムの力を中和させるような役割を期待できる、ということになろう。

資本主義とは一言でいえば、金が金を生むシステムということになる。そうしたシステムに、キリスト教は親和的である。資本主義とキリスト教を結びつけたのはマックス・ウェーバーによればプロテスタンティズムということになるが、キリスト教にはそもそも資本主義を推進するような性質があったというのが中沢の見立てである。キリスト教は、成立直後から、金が金を生む、つまり利子の増殖を認めていたのだという。三位一体は、神が精霊を通じて限りなく存在を増殖させることをことほいでいるが、その存在の増殖とは、貨幣の増殖の隠喩なのだというわけである。

それに対してイスラムは、利子を厳しく禁止している。そうした思想の背景には、厳格な一神教的信仰があるという。一神教がなぜ利子を禁止するのか、その理由を中沢はあれこれ説明しているが、なかなか要領をえない。とにかくイスラムは、唯一の神以外の権威を認めない。金が利子を生むのは、金が独自の権威をもつことを認めるからだ、それは唯一神の権威のほかに別の権威を認めることになるから、許されないということに落ち着くようである。

ともあれ、中沢が利子を禁止するイスラムに共感を寄せるのは、資本主義のもつ非人間的な強欲を、イスラムが中和してくれると考えるからのようである。

中沢が言うように、「圧倒的な非対称」が暴力を誘発しやすいということは、歴史が教えるところだと思う。欧米諸国が、いわゆる後進国を植民地として支配し、ときには原住民を絶滅に追いやったりしたのは、「圧倒的な非対称」という関係を利用したためだ。中国のような高度な文明をもった国でさえ、たまたま軍事力で劣っていたせいで、欧米列強に侵略され、食い物にされた。イスラム圏諸国も同じような目にあわされてきた。それに対する怒りが、9・11のテロを誘発したと中沢は捉え、この本に収められた文章を書いたというわけである。




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