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若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」を読む


若竹千佐子の小説「おらいらでひとりいぐも」は、次のような衝撃的な書き出しから始まる。
 「あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが
 どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ
 何如にもかじょにもしかたながっぺぇ
 てしたことねでば、なにそれぐれ」

これは、若竹の郷里岩手県遠野地方の方言だそうである。その方言で、この小説の語り手は語る。タイトルにもなった「おらおらでひとりいぐも」は、標準語だと、「わたしは一人でやっていきます」というような意味らしい。もっともこの言葉を、若竹は明示的には言っていないが、宮沢賢治の有名な詩「永訣の朝」を意識しながら用いているらしい。「永訣の朝」は、最愛の妹としの死に直面した賢治の当惑を歌ったものだが、その中で妹のとしが
Ora Orade Shitori egumo
と(岩手県花巻地方の方言で)つぶやく。この言葉でとしは、兄の賢治に向かって、「わたしはわたしで、ひとりで極楽浄土に出かけますから、心配しないで下さい」と言っているのであるが、この小説の語り手は、すでに死んでしまった亭主に向かって、亭主がいるであろう世界にあこがれて、次のように叫ぶのだ。
「おらの思ってもみなかった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも」

つまり小説の語り手は、死んだ亭主に会いたくてこう叫んでいるのである。語り手の亭主が死んだのは、もうだいぶ前のことだが、死なれた当初はそう打撃には思わなかった。ところが七十代半ばになり、老いの自覚が深まってくるにつれて、亭主を失った喪失感が心をさいなむようになる。この小説は、そうした老女の喪失感を語ったものなのである。この老女は、小説の設定では七十代半ばということになっている。七十代半ばといえば、特に女性にとっては、まだまだ先のある年齢である。ところがこの小説の語り手は、何時迎えが来てもうろたえないようにと、死を覚悟している。だからこの小説は、老境に入った女性の死の準備といえなくもない。

語り手は、痴呆の症状も多少は出ているようで、幻覚のようなものを感じたりする。幻覚には楽しいものもあるが、語り手にとってつらいのは、寂寥感のような感じである。それは孤独の自覚からくる。その孤独が彼女を滅入らせるとともに、あの世への憧れを掻き立てもするのだ。

孤独は亭主を失ったことの喪失感からくる。彼女はある日突然亭主に死なれたのだ。亭主の名は周造という。その周造を失った悲しみを彼女は次のように表現する。
「周造、逝ってしまった、おらを残して
 周造、どごさ、逝った、おらを残して
 うそだべうそだべうそだべだれかうそだどいってけろあやはあぶあぶぶぶぶぶ」

仲のよかった夫婦の一方が欠けると、残されたほうが生きる気力を失い、後を追うように死んでいくのは、よくあることだ。だがこの語り手は、喪失感に耐えながら、これまで生きてきたし、まだ当分死にそうには見えない。死ぬまでには間がありそうだから、死に向かって準備が出来そうである。彼女にとっての死への準備とは、死後自分が行くべき世界についてそれなりのイメージを明らかにすることだ。彼女の死後の世界のイメージは、どうやら極楽浄土といったものらしい。彼女は「南無阿弥陀仏」とは唱えないが、あの世から迎えにくるものと思い込んでいるフシがある。彼の世から迎えにくるのは、だいたいが阿弥陀様である。その阿弥陀様が、彼女を亭主のいる世界に連れて行ってくれる。そう思うことで彼女は、心の平安を保てるのである。

とまれ彼女は、自分にとって死とは、あの世にいる亭主に会えることを意味しているのだ。だから死ぬことは、「まったぐといっていいほど恐れはねのす。何如って。亭主のいるどころだおん。何如って。待っているからだおん。おらは今むしろ死に魅せられているのだす。どんな痛みも苦しみもそこでいったん回収される。死は恐れではなく解放なんだなす」と彼女は言うのである。

かくて語り手は、孤独の意味を考えるうち、孤独の先にある死を乗り越えてしまうのである。




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