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見田宗助「現代社会の理論」を読む


見田宗助といえば、一応社会学者ということになっているが、宮沢賢治の研究でも知られる。「存在の祭の中へ」という副題を持つかれの宮沢賢治論は、日本人の悪い癖である印象批評に堕さず、しかも賢治の感性的な世界を生き生きと語っている。感性的でありつつ、論理的でもあるというのが、見田宗助の強みといってよい。

「現代社会の理論」と題したこの著作(岩波新書)は、社会学者としての見田の学問的マニフェストいういうべきものである。マニフェストというのは、原理的な考察を踏まえて、自己の主張を尖鋭的に示した文書という意味だ。この文書の中で見田は、自分は資本主義システムを唯一の前提として、その枠組の中で現代社会をより望ましいものにしていくにはどうしたらよいか、という問題意識に立って考えたいと宣言している。それには彼なりの世界認識がある。

1990年前後に世界の社会主義体制が崩壊し、資本主義的な自由主義社会のシステムが唯一のシステムとして生き残った。しかし、この勝利は、「歴史の中で、競合する他のシステムの自己崩壊をとおして実現されたのであり、この自己準拠するシステムの新しい困難と限界問題が、積極的に克服されたということによるものではない」。つまり資本主義的自由主義システムは、社会主義システムの自己崩壊によって、いわばタナボタ式に唯一の勝者の立場をつかんだのであって、その内部に、やはりそれ自身が崩壊する可能性を排除したものではないという認識を見田はしているわけである。

見田は、今の資本主義システムには大きな限界があると見ている。それに対して有効な手立てを打たないと、資本主義もまた自壊する可能性がある。その限界のうちでもっとも重要な意義を持つのは、資源と環境である。資本主義はこれまで、資源も環境も無制限だという前提に立っていられた。じっさい先進工業国に絞ってみれば、資源は世界中から無尽蔵に集めることができたし、環境問題も、未開発国の犠牲のうえで、成り立つことが可能であった。だが、今後もそういく可能性はほとんどない。それゆえ我々人類は、やがて資源の枯渇と、地球環境全体の深刻な汚染という事態に直面することになるであろう。それを回避して地球社会が存続していくためには、何が必要か。それを明かにしたうえで、有効な対策を行っていけば、地球は引き続き「繁栄」を続けることができるだろう、というのである。

そのためには、基本的なこととして、人間の生き方の変換というべきものが必要になる、と見田は言う。これまでは、GDPに代表されるように、人間社会の豊かさを数字で表現するのが普通だった。そのやり方だと、かつて宇沢弘文が指摘したように、外部費用にかかる支出(たとえば公害対策費用)までが、GDPの構成要素ということになってしまう。しかしそれは、倒錯した事態である。

こうした倒錯した事態が起きるのは、成長至上主義のせいである。成長至上主義は数字にこだわる。なんでも成長を押し上げる要素となる数字が大きくなれば、それは基本的によいことなのだ。そうなる理由は、商品経済のメカニズムの中にある。資本主義的商品経済というのは、そのまま放置しておくと、限界を知らぬ成長への欲望と、人間相互の間の分断をもたらす。それが、資源の枯渇や環境の汚染をもたらす一方、見田が「北の貧困」と言っているような深刻な貧困現象をもたらす。それらは、資本主義的自由主義のシステムが持続的に存続していくうえで、大きなリスクとなる。

そういうリスクを持っているとはいえ、このシステムは、未來に向かって唯一望ましいシステムである、と見田は考える。見田は、システムの有効性のもっとも肝心な基準は、人間にとって自由を保証できるかどうかにあると見ている。社会主義が自壊したのは、自由が限定されていることに、人々が耐えられなかったからだ。資本主義的自由主義システムは、完璧とは言えないまでも、人間に自由を保障するシステムである。だから、それを大事にして、足りないところを補いながら、今後も維持していく必要があると見田は考えるのである。

こう言うと、見田の社会理論は、基本的には、資本主義の延命のための理論というふうに聞こえる。見田にとっては、資本主義のほかに有効なシステムはあり得ないのであるから、それの欠陥をただしながら、すこしでもましな世の中を作っていくほかはない、ということになる。それについて見田は、かなり楽観的である。その理由として、消費社会化の進展とか、情報社会の可能性といった事態をあげている。見田の消費社会論は、経済社会のあり方を、生産ではなく消費の視点から見直すものである。そうすることで、生産中心の視点では見えなかったものが、見えてくる。生産中心の視点では、商品の価値は価格に還元されるが、消費中心の視点からは、数字には現れない、人間の根源的な喜びといったものが、経済を動かすファクターとして目に入ってくる。見田が、ジョルジュ・バタイユを引用するのは、そういう文脈の中においてである。バタイユは、消費というものの中に、単に物質的な消費のみならず、人間にとってものを消尽することに伴なう根源的な喜びといったものがある、と語った。そうした喜びを増大させるような仕組みが構築できれば、人間社会は全体として豊かになっていくだろうし、それを通じて資本主義もまた生き残っていくことができる。そう見田は考えるのである。

そうした見田の姿勢は、かなり甘いと言わざるを得ないものをもっている。たとえば、見田は消費社会化の進展にともなって、一方では、これまで経済発展にとって大きな足かせとなってきた需要の限界が取り払われるようになると言い、他方では、資源の枯渇や環境の汚染もかなり抑制されると言っているが、それらはどれも実現にはほど遠い状態だと言わざるを得ない。いまや世界的な現象となっているデフレ傾向は需要の限界が強固に存在していることを物語っているし、資源の枯渇や環境の汚染は、危機的なレベルにある。とくに環境の汚染は深刻で、このままでは地球は従来の姿のままでは存続できないという懸念が、各方面から出されている。そういう懸念を表明する人(たとえば斎藤幸平)にとっては、見田の主張はあまりにも根拠のないものと映るのではないか。




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