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内田樹・白井聡「日本戦後史論」


内田樹と白井聡の対談「日本戦後史論」を読んでいたら、先の敗戦について内田がユニークな説を展開しているところが強く印象に残った。内田は、この敗戦には、しかるべき理由があった、それは薩長藩閥勢力に対する旧賊軍のルサンチマンともいうべき感情が齎したものだという。つまり、この敗戦は、日本人自身が選んだものなのであり、その背景には、明治維新以降、薩長勢力が中心になって築き上げてきた近代日本のシステム全体を壊そうとする反薩長勢力=旧賊軍勢力の怨念が働いていたというのである。

明治維新以降、日本の近代的な軍隊は、海軍は薩摩が、陸軍は長州が牛耳ってきた。しかし、1922年に山縣有朋が死に、1929年に田中義一が死んで、戊辰戦争以来陸軍を支配してきた長州閥が終った。それまでの陸軍には、長州出身者たちの特権的なキャリアパスがあったが、それがなくなる。その空隙を狙って、それまで冷や飯を食わされてきた軍人たちが一気に陸軍上層部にのし上がってくる。それがほとんど、旧賊軍の出身者だったというのである。相沢三郎は仙台、相沢に殺された永田鉄山は信州、東条英機と板垣征四郎は岩手、石原莞爾は庄内と言う具合に。

これら旧賊軍の出身者は、薩長が作り上げてきた明治以降の近代国家の枠組に深い怨念を抱いていた。なにしろ、戊辰戦争では賊軍扱いされて殺され、その後もずっと劣等国民扱いされてきた。その怨念が、長州に代って権力の座に着いた彼らに、いわば「薩長に借りを返す」というような気持ちを抱かせたのではないか。「薩長が作った明治の体制を一度根本から作り変えなければならない、こんなシステムは一度壊さなければならない、そう思っていたのではないか。この人たちが満州事変を起こし、昭和維新を呼号して二・二六事件を起こし、日中戦争を始め、対米戦争を始めた・・・日本軍国主義というのは、のぼせ上った軍人たちが、その権力欲と愚頓さゆえに国を滅ぼしたというよりも、むしろ彼ら自身の心のどこかに、『こんな国、滅びたっていい』という底なしのニヒリズムを抱えていたのではないか」というような物騒なことを内田は言うわけなのである。

筆者は、日本の軍国主義というのは、明治以来の日本の国のあり方の延長として成立したのであり、したがって明治政府とそれを動かしていた薩長藩閥に大きな責任があるものと考えて来た。内田は、それとは違って、日本の軍国主義を藩閥支配とは別の次元のものとして、旧来の支配体制と断絶したものと捉えているわけである。日本の軍国主義は、薩長藩閥支配への嫌悪がもたらしたのであり、その嫌悪を担っていたのは、薩長藩閥によって抑圧されていた旧賊軍の怨念(ルサンチマン)だったということになる。

こういう風に整理されると、日本の近代化がいかに怪しい地盤の上に立っていたかということが見えてくる。日本の近代化は、建前の上では、国民統合の理念に基づいて遂行されてきた。支配のヘゲモニーを握っているのは薩長藩閥勢力かも知れないが、一応権力へのアクセスは広く開放されているし、国民が共通の目的に向かって歩んでいるのだという擬制が受け入れられてきたと考えられていた。しかし、実際のところはそうではなかった。国民は深刻な分断状態にあったのであり、その内部に、こんな国は壊れてしまえ、と思っているような人々を多く抱え込んでいた。その人々が、何かのきっかけで権力を握るようになると、その権力を、近代日本という国の形を壊すことに用いるようになった。これは国の存亡にとって実に危険なことだ。そして実際、その危険が表面化して、日本は一旦滅びてしまったわけなのであろう。

こういう見方が、どの程度有効性を持つものなのか。かなり大規模な検証が必要になるだろうが、歴史解釈への一つの切り口として、一定の意義はあるかもしれない。

ところで、辻政信のような軍人はどう考えたらよいのか。この男はノモンハン事件の作戦指導をしたほかに、戦争の節目節目に日本陸軍の作戦指導にあたり、そのたびに無責任ぶりを発揮した人間として評判が悪いのだが、この男には、薩長藩閥に対する怨念というようなものはあまり感じられない。単に愚かなのである。その愚かさから、丸山真男が言う日本軍国主義の無責任の象徴のようになっているのだが、この男も石川県の出身だから、まあ旧賊軍のはしくれのようなものだ。だが、旧加賀藩の武士の末裔は、かなり陸軍に入っていることからも、陸軍とその背景にある大日本帝国への反発は、それほどでもなかったともいえる。辻の場合にも、大日本帝国への反発は強くなかったのではないか。この男は、単純に愚かだったのであろう。




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