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斎藤美奈子「それってどうなの主義」


先日、文芸評論家の斎藤美奈子女史が、八紘一宇を賛美した某自民党女性代議士を叱責したことを取り上げたが、この人の率直な物言いは、筆者の大いに評価するところだ。そもそもは、目下読書誌「図書」に連載している「文庫解説を読む」がきっかけになって、興味をひかれたのだった。そこで、他のものも読んで見る気になって、「名作うしろ読み」とか「それってどうなの主義」といった本を手に取って見たところだ。「名作うしろ読み」は、千字足らずの短い文章で、名作のエッセンスをさらりと紹介するもので、なかなかウィットに富んでいるとの印象を受けた。

「それってどうなの主義」は、標題から連想されるように、世の中の風潮に対して物言うといった構えの本なので、勢い政治や社会のあり方が話題の中心になっているが、他にもいろいろ面白いトピックが詰め込まれている。そんな中で筆者が興味深く感じたのは、女史の故郷に対する思い入れだ。

女史は新潟県の出身だそうで、高校を卒業するまで新潟で育った。そんなこともあって、新潟には特別の思い入れがあるようなのだ。そこで、この本には、新潟県にまつわる話題が、非常に多く出てくる。ここでは、そのうちから二つ、筆者の面白く感じたことを紹介したい。

まず、川端康成の小説「雪国」。この小説の最大の魅力が美しい日本語にあるということは誰もが言うことで、そのことに女史も異論はないが、しかし、それはそれとして、駒子や葉子はほんとにこんな日本語を話していたんだろうか、と疑問を投げかける。というのも、彼女らの話し言葉は、雪国の山育ちの娘とは到底思えず、麹町あたりの若奥さんかなにかのようだ、というのである。まあ、小説のことであるから、読者の便宜を考えて、登場人物の話し言葉に多少の細工を加えるのは許されるにしても、駒子や葉子の話し言葉は、あまりにも現実から離れている、と女史は言いたいようなのだ。ちなみに、冒頭で出てくる、葉子と駅長さんとの有名なやりとりについて、女史は原文とそもそもの土地の言葉とを次のように対比して見せる。

原文
「駅長さん、私です、御機嫌よろしうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね、お世話さまですわ。」

方言バージョン
「駅長さん、私らて、なじらね。」
「やいーや、葉子さんらねっか。お帰りらかね。ばっかさぁめなったれねー。」
「おじが今度おめさんげに勤めさしてもろてるがんらてね。お世話さまらこて。」

こう並べて対比されると、たしかにその落差の大きさに気づかされる。川端の表現には、かなりの人工性を認めざるを得ない。山の手の若奥さんでも、このように言うかどうかわからぬほど、葉子は他人行儀な言葉遣いをしている。

川端が、駒子や葉子にこんな言葉遣いをさせているのは、彼がこの小説をまじめに書いていないからだと、女史は言いたいようである。「まーあれは、『トンネルの向うのエキゾティズム』を描いただけの小説。たいした作品じゃないよと私はひそかに思っていますけど」というのである。

次に、新潟弁の隠語について。女史は、「新潟では失敗したことを素直にチョ×ボと発音できない」という。その理由は、「チョ×ボ」が新潟では男性器の呼称だからだそうだ。だが、「九州では発音できないらしい『ボボ』は新潟では『赤ん坊』の意味だから平気」なのだそうだ。

いかにも女性らしく、「チョ×ボ」などと表記しているが、これは「ちょんぼ」のことだろう。この言葉は、西日本で広く流通している女性器の呼称と同根の言葉のはずだ。「ツオンベ」とか「トンビ」とかいったそれら同根の言葉は、いずれも女性器をあらわす古い言葉「ツビ」が変化したものだ。その系統上にある「チョンボ」が、新潟ではなぜ男性器の呼称になったのか、興味深いところではある。(東京地方で、失敗を表現する言葉として用いられているというのも、それに劣らず興味深い)

また、女性器の呼称としての「ぼぼ」のほうは、これも古い言葉である「ほと」が変化した形だと考えられる。地域によっては、「べべ」と言ったり「めめ」と言ったりする。関東地方で広く流通しているあの四文字言葉もこれの仲間だ。そういう因縁の言葉が、新潟では赤ん坊の呼称になっているというのも面白い。

これは余計なことかもしれないが、男性器を表す日本の古い言葉としては「マラ」というのがある。




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