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養老孟司「バカの壁」


脳学者養老孟司氏の啓蒙的著作「バカの壁」は、「話せばわかるは大嘘」ということから始まるので、のっけからずっこけてしまう。筆者も含めて普通の人は、人間同士というのは「話せばわかる」と何となく思い込んでいると思うのだが、氏はそれを根拠のない思い込みであり、そんなことを主張するのは「大嘘」だと言うのである。

なぜなら、人間というものは、お互いに話が通じないようにできているからだ。その原因は、物事の受け止め方と、それにもとづく行動のフィードバックとが、人によって千差万別で、共通するところがほとんどないからだと氏は言うのだ。

氏はそのメカニズムを、脳科学のタームを用いて縷々説明しているが、簡単に言えば、同じ事象を前にしても、人によってその認識の仕方が異なり、それに伴う行動が違う方向をむきがちなのは、人間の認識にはバイアスがかかっているからだということのようだ。このバイアスが介入するおかげで、同じものを見ても違って見え、したがってそれについて全く違う方向の行動が導き出されたりもする。

このバイアスを氏は、「バカの壁」と名づけ、この壁がある限り、人間相互が互いに話し合える可能性はゼロに近いと言うのだ。

この説に接して筆者は、いわゆる右翼と左翼がなぜ互いに理解できないのか、その理由の幾分かがわかったような気がした。右翼と左翼とでは、物事を受容する際に働くバイアスは、それこそ右と左のように正反対を向いている。だから、同じ事象を前にしても、それを全く違った風に受容するし、それに伴う行動も正反対の方向を向くことになる。

これでひとつ思い出したのが、先日朝日のコラムに載ったある記事のことだ。この記事は、朝日の一解説委員が、いわゆるネトウヨと呼ばれる人との間で会話の機会を持ち、互いの理解を深めようと勤めたところ、全く理解しあうことができなかったというようなことを書いていた。この記事の筆者は、人間は話し合えば理解できるという前提に立っていたからこそ、全く異なる意見の持ち主と対話する気になったのであろうし、そのことによって誤解の溝を生めることができると、素朴に信じていたのであろう。だが、五時間にもわたって延々と話をしたに関わらず、全く理解しあうことができなかった、そういってこの人はため息をついていたのだが、そのため息は、養老氏によれば、漏れるべくして漏れてきたのであって、その理由は、無駄なことをそうとわからずに行ったことにある、ということになろう。

しかし、世の中いくらバカの壁があちこちに立ちはだかっているとはいえ、問答無用が横行するようでは、いかにも殺伐としている。バカの壁があることを十分頭に入れながらも、話し合いの労をいとわない、というのが次善の策なのではないだろうか。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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