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ドゥルーズの思想 差異の哲学を読み解く |
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze 1925-1995)は、ミシェル・フーコー(1926-1984)及びジャック・デリダ(1930-2004)とほぼ同時代人である。この三人に共通するのは、西洋の哲学の伝統(しばしば形而上学と表現され)に挑戦したということだ。正統哲学の伝統は、ギリシャに始まり、キリスト教の受容を経て、デカルトの観念論へとほぼ直線的な発展をとげてきたと思念されてきた。そうした哲学史の直線性はヘーゲルによって体系的に論じられた。ヘーゲルによれば、歴史上のあらゆる哲学は、ただ一つの理念を実現するために現れたのであって、そのただ一つの理念とは、彼自身が体現していたヨーロッパ的な精神なのである。そういう見方は、ヘーゲル以後の様々な哲学者も受け継いでいる。西洋哲学はしたがってある一つの共通する土台のうえで発展してきたといえる。その土台とは、基本的には人間の主観的な世界である。主観性は意識によって担われている。したがって意識こそが哲学の対象である。こうした考えが西洋哲学の伝統を支えてきたのであるが、ドゥルーズらはそうした考えに大胆に挑戦したのである。 フーコーは、「言葉と物」(1966)という書物のなかで、エピステーメーという概念を提示した。これは、ある特定の社会はそれ特有の知の枠組みを持っているとする考えである。マルクスのイデオロギー論を想起させるが、イデオロギーとは異なり、生産とか階級といった物質的な条件とは結びつかない。純粋に精神的な現象である。しかもあるエピステーメーから別のエピステーメーへの移行は、連続的な過程ではなく、したがって断絶していると考えられる。ある時期を境にして、人々は全く異なるエピステーメーに移行するのだ。エピステーメーは知の枠組みのことだから、それが変わるということは、世界や人間についての見方が全面的に変わるということである。その変わり方は突然のことであり、しかも以前のエピステーメーとは内在的なつながりをもたないから、人々は突然生まれ変わってしまったような気分になるであろう。このエピステーメー論の哲学史上の意義は、西洋の哲学の歴史を、連続的な発展と見るのではなく、断絶の相のうちに見るということである。そのことで、哲学史の見方に相対的な視点が導入される。相対的な視点を徹底させれば、西洋哲学の伝統は堅固な根拠を主張できなくなる。そうすることでフーコーは西洋哲学の伝統を相対化させたといえる。 デリダは、1967年に「声と現象」、「グラマトロジーについて」、「エクリチュールと差異」の三冊の書物を一気に公刊し、それらのなかで、脱構築と呼ばれるようになる主張を展開した。これらの書物自体のなかでは、デリダは「脱構築」という言葉をスローガン的に使っているわけではないが、その主張は実質的には西洋哲学の解体をめざしたものであり、したがって脱構築と呼ぶに値するのである。デリダのそのような姿勢は、ハイデガーから受け継いだものである。ハイデガーも西洋哲学の解体ということをいい、解体のあとに彼独自の存在の哲学を建立しようとした。ハイデガーはその解体の思想を、ニーチェから学んだ。ニーチェは、ギリシャ以来の西洋哲学の伝統を徹底的に批判し、その全面的な否定と、それに代わるべきものとしての超人の思想を持ちだしたわけだが、その超人にハイデガーはドイツ的な精神をかぶせた。デリダの場合には、ハイデガーやニーチェに依拠して西洋哲学の徹底的な批判を行ったとはいえ、そのあとに超人とかハイデガー流の精神論を展開することはなかった。だから基本的には破壊に専念した哲学者といってよい。 ドゥルーズもまた、西洋哲学の伝統の破壊者として振る舞った。ドゥルーズは三人のなかでは一番年長なのだが、破壊の哲学者として名声を博する著作を出すのはもっとも後になってだ。「差異と反復」は1968年の刊行だし、「意味の論理学」は1969年である。この二つの著作を通じて、かれは西洋哲学の伝統をもっともドラスティックな形で批判し、それに代わるべき新しい哲学のイメージを提出した。したがってドゥルーズは、もっとも徹底的な西洋哲学の破壊者といってよい。 ドゥルーズはまず、哲学史上の何人かの思想家を個別にとりあげ、モノグラフィー的な批評を行うことから出発した。かれが取りあげた思想家は、ヒューム、ニーチェ、カント、ベルグソン、スピノザなどである。ヒュームからは、懐疑主義的な相対的思考法を学んだ。ドゥルーズ以前に、イギリス経験論から積極的に学んだフランスの哲学者はいないのではないか。カント研究は、そうしたイギリス経験論の伝統とのかかわりの中で行われたものといえる。一方ニーチェからは、西洋哲学の伝統に対する徹底的な批判の視点を学んだ。かれの西洋哲学批判は、ニーチェの決定的な影響下にある。ベルグソンからは差異の思想を学んだ。ベルグソンにおいて差異は、意識の直接与件を前提としたもので、したがって分節化の結果生じるものという位置づけだが、ドゥルーズはそれを換骨堕胎して、分節化以前の根源的な差異を問題とした。その根源的な差異が、同一性を根拠とした西洋哲学の伝統に対する攻撃手段となる。スピノザからは、唯物論的な世界観を学んだ。スピノザは、神の名の下で物質の自立性を主張し、世界は物質の自由な運動だと解釈したわけでが、ドゥルーズはそうした考えに多少の手を加え、世界は差異そのものだと主張した。差異そのものとしての物質が自律的な運動をすることで世界は成り立っている、と主張したのである。 以上のモノグラフィー的な研究を踏まえ、ドゥルーズはいよいよ本格的な西洋哲学批判に乗り出す。それが「差異と反復」及び「意味の論理学」である。「差異と反復」は、西洋哲学の土台をなしている同一性の概念についての徹底的な批判である。西洋哲学の伝統は、ひとえに同一性の前提の上に成り立っている。同一性がなければ、客観的な概念は成立しないし、また堅固な自我というものも成立しようがない。その同一世の概念は、プラトンのイデアというかたちで、すでにギリシャ哲学にあらわれており、それを西洋哲学の伝統は受け継いできた。デカルトの自我も、考えるわれの同一性を前提としたものだ。そうした同一性に対してドゥルーズは根源的な差異を対立させた。反復でさえも、同じものの反復ではなく、差異あるものの反復だとする。そうすることによって、差異こそが世界及び自我の原理だと主張したのである。同一性の欺瞞性が暴かれれば、西洋哲学は、そのよって立つ基盤を破壊されることになる。ドゥルーズはその破壊をもっとも徹底的に行った哲学者といってよい。 「意味の論理学」は、「差異と反復」を踏まえ伝統的な哲学のスタイルとは異なった新しいスタイルを提示したものだ。伝統的な哲学は、ある明白な原理を根拠として、世界を体系的に論じるという方法をとり、したがって演繹的である。そういう方法は、スピノザでさえ便利がって使ったものだ。だが、ドゥルーズはそうした方法では、新しい哲学は語れないと考えた。ではそれにかわる方法とはいかなるものか。それはドゥルーズの根本思想である「差異」というものを体現したものでなければならぬ。そんなわけで、この「意味の論理学」という書物は、体系的な叙述にはなっておらず、きわめてアトランダムな構成をとっている。読者はこの書物をどこの部分から読んでもよいのである。すべての部分(章に相当する)はセリーと名付けられ、それぞれが独立した文章である。相互に論理的なつながりはない。 ドゥルーズは、1968年の五月革命にかなりなショックを受けた。そのことでかれは、単に西洋哲学を解体するのみならず、西洋社会全体を改革せねばならぬとの意識を持つようになった。そんな折に、ラカン派の精神分析家ガタリと出会った。ガタリは激烈な資本主義批判者であった。かれは精神分析家でありながら、フロイトの精神分析は資本主義を支えるために機能していると批判した。そのうえで、資本主義を乗り越えるためには、精神分析を否定し、それに代わって分裂症的な手法を用いねばならぬと主張した。ドゥルーズはそんなガタリと協働して、「アンチ・オイディプス」(1972)及び「千のプラトー」(1980)という二つの書物を刊行した。 この二つの著作には「資本主義と分裂症」という総タイトルがつけられている。二つとも同じ一つのテーマを論じているという体裁である。資本主義とその擁護者である精神分析を批判し、分裂症的な精神を以て世界を立て直そうという意欲が込められている。まず「アンチ・オイディプス」によって、どういう具合に精神分析が資本主義を合理化しているか、そのメカニズムを解明し、それを受けた形で「千のプラトー」では、分裂症的な精神にもとづいた社会の建設の展望のようなことが語られる。そこで分裂症的な精神とはなにかが問題になるが、それは簡単にいえば、差異を差異としてそのまま受け入れるということである。つまり、ドゥルーズが生涯にわたってこだわった「差異」が、ここでは全面的に展開されているわけである。プラトーというのは、差異を表象したものである。世界は多くの差異からなるというのが、「千のプラトー」というタイトルの意味である。 ドゥルーズは、晩年、ガタリと協働して「哲学とはなにか」という書物を書いた。この書物の中でドゥルーズは西洋哲学の伝統について語っている。そのうえで、哲学とは概念をつくるのを仕事としているというのだが、ドゥルーズのそもそもの哲学的使命は、西洋伝統哲学の解体にあったわけであるから、その西洋哲学の伝統に浸るかのようなこの書物は、いささか彼本来のやるべき仕事とは相いれないような印象を与える。かれは、西洋哲学の伝統を解体することはむつかしいし、ましてやそれにかわるものを打ち立てるのはもっと難しいと考えたのか。もしそうだとすれば、かれは自分自身の限界について、この書物で告白したということになる。 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