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哲学における前提の問題:ドゥルーズ「差異と反復」を読む |
「差異と反復」の第三章は、「思考のイマージュ」と題されているが、実質的な内容は、哲学の前提に関する議論である。ドゥルーズは、従来の伝統的な哲学はすべて、ある前提から出発していると見ている。その前提とは、哲学以前の世俗的な道徳を反映したものである。したがって臆見とか常識と言い換えられるようなものである。そうした臆見ないしは常識が土台にあるから、哲学はすべての人(といっても西洋的な伝統に属する人という意味だが)にとって共通の議論の対象となるのである。ところで、ドゥルーズの哲学者としての使命は、伝統的な哲学(形而上学)を、ニーチェと共に解体することであった。その解体の主要な武器として、ドゥルーズは、哲学における前提の批判とその否定を打ち出すのである。だからこの章の狙いは、「哲学における前提」を破壊することにある。 哲学における前提は、具体的にはどのようなものか。それはまず、誰もが知っていることであり、すべての人が承認しているものである。だれもが否定できないもの、そうしたものとして受け取られている。そういうものだからこそ。それを共通の前提としてすべての人が議論に加われる。というか、そうした前提から出発して議論を始めることができる。その前提をドゥルーズは「思考のイマージュ」と呼ぶわけである。「思考のそのようなイマージュを、わたしたちは、ドクマティックな(臆説による)、あるいはオーソドックスな(正しき臆見による)イマージュ、道徳的イマージュと呼ぶ」(財津理訳)。そうドゥルーズは言ったうえで、そうした道徳的なイマージュを解体することで、新たな哲学を始めたいと、ニーチェとともに考えるのである。 思考のイマージュが道徳的なものである所以を、ドゥルーズはニーチェの次のような発言を引き合いにだして説明している。「思考がよき本性(自然)を持ち、思考が良き意思をもつとわたしたちに納得させうるのは、ひとり<道徳>のみであるがゆえに、また、思考と<真>なるものと仮定上の類縁性の根拠となるのは、ひとり<善>のみであるがゆえに、そうした諸前提は本質的に道徳的なものである」。つまり、哲学とは(ということは伝統的な哲学とは、ということだが)、道徳という土俵の上で展開してきたということだ。それに対してドゥルーズは、ニーチェと共に<否>と言うのである。 哲学の前提となる思考のイマージュとして、ドゥルーズは八つの公準をあげる。公準とは疑い得ない原理という意味である。少なくとも、伝統哲学が疑い得ない原理として立てていたものである。疑い得ないということは、哲学における概念的思考が、「常識の純粋なエレメントから借用された、哲学以前的で自然的な(生まれつきの)思考の<イマージュ>を、おのれの暗黙の前提としている」からである。ともあれ、それらの公準をドゥルーズは一つ一つ取り上げて批判し、それらの解体をめざすのである。 第一の公準は、「普遍的本性たる<思考>の原理」である。これは、「人間は考える存在である」というふうに言い換えられる。人間と考える存在とが同一視されるがゆえに、デカルトのあのコギトが無条件に支持されるのである。だが実際には、人間というものは、普通は考えていない。人間は、考えるように迫られないと、考えないものなのだ。 第二の公準は、「常識(共通感覚)の理想」である。常識とは、人間社会が当然のこととして受け入れている基準のことである。「おのれ自身を普遍的なものとする先入見をもつこと、おのれを権利上普遍的なもの、権利上連絡可能なものとして要請すること、これがサンス(良識、常識)の仕事」なのである。卑近な例でいえば、バイデンが言うデモクラシーの原理がそれにあたるだろう。デモクラシーの原理は、いまや、権利上普遍的なものとしておのれを主張しているのである。 第三の公準は、「再認というモデル」である。再認とは、ドゥルーズによれば、「同じものとして想定されたひとつの対象に向かって、すべての認識能力が一致して働くということである」。具体的にいうと、同じものが常に同じものとして再認されるということである。これがあるからこそ、同一性の原理が人間の認識を支配することになるわけである。 ここまでの以上三つの公準は、哲学にとって困ったものだとドゥルーズは言う。「というのも、自然的に(生まれつき)正しい思考、権利において自然的な常識、先験的なモデルとしての再認という、仮定された三重の水準は、オーソドクシー(正しき臆見)という理想しか構成することができないからである。だから哲学は、もはや、ドクサ(臆見)と手を切るということであったはずのおのれの計画を実現する手段をもたなくなる」。 第四の公準は、「表象=再現前化のエレメント」である。これもまた同一性にかかわるものだ。差異を同一性との相対的な概念としてとらえ、反復を同一物の反復と見るものだ。そのような「表象=再現前化の世界は、表象=再現前化されていない(それ自身における差異)を思考することができず、それと同時に、(それ自身へ向かう反復)を思考できないとう、その無力を特徴としている」。 第五の公準は、「誤謬という『否定的』なもの」である。ドゥルーズは、「誤謬とは、つねに誤った再認にほかならないのではないか。そして、誤謬は、表象=再現前化の諸エレメントの誤った割り振りからしか、すなわち、対立、類比、類似および同一性についての誤った評価からしか出てこないのではないか」と言ったうえで、「誤謬は、合理的なオーソドクシー(正しき臆見)の裏面でしかなく、もたもや、おのれが遠ざかっている当のもののために、つまり真っ正直さのために、良き本性と良き意思とを、つまり間違えることもあると言われている者の本性と意志とを証示するのである」と言うのである。 第六の公準は、「指示の特権」である。指示は、本質(意味)と存在の差異にかかわる。命題は、それ自体では真実であることを保証されない。命題が真実であるためには、それが表す対象が指示されねばならぬ。神の存在証明に関して、よく持ち出されるものだ。ウィトゲンシュタインなどは、指示作用の対象をもたぬものは、空虚な命題であり、具体的に語りえないものとして、語りえないものについては沈黙せねばならぬと言ったが、ドゥルーズはそうは考えない。「それ自身において矛盾した、対象(円の~四角く~あること)が、たとえ「意味作用」を持たない(対象を支持できない)にせよ、ひとつの意味はもつということを、どうして避けることができようか」と言うのである。 第七の公準は、「解の様相」である。これは、「問題とは、前もって与えられる一定のすっかりできあがったものだと、そして、答えもしくは解のなかで消失するものだと信じ込まされている」というようなことを表す言葉だ。「人間は、自分が解決できる問題だけを自分で立てる」とも言い換えられる。しかしそれでは、人間には進歩は望めないというのが、ドゥルーズの考えである。 第八の公準は、「知という結果」である。これは結果としての知を重んじることで、学ぶことを知ることに従属させるものである。結果の如何にかかわらず、学ぶ姿勢が大事なのだというわけである。 以上八つの公準として要約される伝統的な哲学のよって立つ前提を覆し、前提なしに哲学を始めることが、真の哲学者のとるべき姿勢なのだとドゥルーズは、ニーチェとともに主張するのである。 |
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