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ユーモアについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む |
ユーモアは、ナンセンス及びパラドックスとならび、意味の脱臼の第三の形態である。意味の脱臼とは、シニフィアンとシニフィエとの間にずれがあることをさす。ナンセンスは、シニフィアンが複数のシニフィエと結びつき、それらの結びつきが互いに否定しあうことをいい、パラドックスはシニフィアンが二つのシニフィエと結びつき、それらがいずれも成り立つことをいう。一方ユーモアは、抽象的でかつ観念的な意味を、具象的で唯物的(身体的)な意味に置き換えることをいう。その例としてドゥルーズは次のようなものをあげている。「プラトンは人間のシニフィエを<羽のない二足動物>であるとしたが、これに対してキュニコス派のディオゲネスは羽をむしったおんどりを投げ返すことによって答える」。つまり、プラトンが人間のシニフィエを抽象的なイメージのシニフィアンと結びつけるのに対して、ディオゲナスは具象的なシニフィアンと結びつけるわけである。その結びつきは、プラトンのような観念論者にとっては笑うべきものであるので、それをディオゲネスは逆手にとって、ユーモアというのである。 ドゥルーズは先に、人間の世界認識の基準を、高さ、深さ、表層の三つに区分していたが、ユーモアは高さを表層に引き落とすことから生じる。深さはとりあえず問題にならない。深さは無意識の領域であるので、きわめて意識的な事象であるユーモアとは直接の関係を持たないのである。 高さは上昇によってもたらされる。上層の運動が高さをもたらすのである。その上昇の運動は、イロニーを介して生じる。というのも、ソクラテスはイロニーを武器とする弁証法の働きを通じて、抽象的な観念に上昇することができるからだ。それに対してユーモアは、上昇したものとしての抽象的な観念を具象的なものへと引き戻す運動である。そんなわけでユーモアはイロニーとの間で対立関係にある。イロニーは上昇の運動であり、ユーモアは下降の運動である。 そこで、ユーモアについて詳しく考察する前提として、イロニーについて詳しく知っていなければならない。ユーモアはイロニーの相関者なのであるから、イロニーのあり方に対応してユーモアも成り立つのである。 イロニーの原型はソクラテスの弁証法である。弁証法とは、措定された命題に、それとは一見矛盾対立する命題をぶつけ、そこから高度の総合的な命題を引き出す作業のことである。ソクラテスのイロニーを原型として、二つのイロニーが生まれたとドゥルーズは言う。ひとつは古典的なイロニー、もうひとつはロマンチックなイロニーである。古典的なイロニーは、個体としての個人を語るものとして規定する。語るのは特定の個人である。それに対してロマンチックなイロニーは、語る者を人間として規定し、個体としては規定しない。だがその場合の人間とは、私しかいないクラスとしての人間である。 これら三つのタイプのイロニーに対してユーモアがそれぞれ対応する。ソクラテスのイロニーに対しては、上昇への反動としての下降、古典的なイロニーに対しては、ライプニッツの合理的なユーモア、ロマンチックなイロニーに対しては、進化論的なユーモアということになる。上昇への反動としての下降についてはなんとなくわかるが、ライプニッツや進化論のユーモアについては、はっきりしたイメージが思い浮かばない。ドゥルーズ自身にも具体的なイメージはなかったのでないか。ドゥルーズは、ソクラテス・プラトンから西洋哲学の伝統が始まったと考えるから、その伝統を成立させている基盤を攻撃することを自分の使命と考えていた。その基盤の重要な要素として、個別具体的なものから普遍的な抽象概念への上昇運動があり、その運動がイロニーによって支えられているからには、イロニーを攻撃する武器としてユーモアを使えばよい。そのように考えることで満足したのではないか。 ともあれドゥルーズはイロニーとユーモアに関する議論をつぎのような文章で結んでいる。「悲劇的なものとイロニーは、ユーモアと新しい価値に席を譲る。なぜなら、もしもイロニーが存在と個体との共外縁性、もしくは私と表象との共外縁性であるならば、ユーモアは意味とナンセンスの共外縁性である。ユーモアは、表面と裏面、遊牧的な特異性とつねに移動している偶然の点の技術であり、静的発生の技術、純粋なできごとを処理する知恵、もしくは<単数の第四人称>であり、中断されたあらゆる意味作用・指示作用・表示作用であり、廃棄されたあらゆる深層と高さである」(岡田、宇波訳)。 要するにユーモアは、新しい哲学の重要な武器となるわけである。笑う哲学者というイメージが、新しい時代の哲学者のイメージである。笑うことができる哲学者は、ドゥルーズによれば、ストア派やキュニコス派の哲学者をモデルとしているようであるが、むしろ唯物論者をモデルとすべきではないか。古代の哲学者のなかで最も笑顔が似合うのはエピクロスであるし、スピノザやマルクスといった唯物論者がその笑いをうけついだとすれば、唯物論者こそドゥルーズの知的祖先というべきなのである。 |
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