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シミュラークルと古代哲学 ドゥルーズ「意味の論理学」を読む |
「意味の論理学」には、「シミュラークルと古代哲学」と題する付論があって、二つの文章からなっている。一つは「プラトンとシミュラークル」といい、プラトン哲学の転倒に果たすシミュラークルの役割について、もう一つは「ルクレチウスとシミュラークル」といい、ルクレチウスやその先駆者エピクロスの思想がシミュラークルについての最初の積極的な議論を含んでいたということついて論じている。そこでシミュラークルという言葉が問題になるが、これは、シミュラシオンの類語であり、疑似とか虚像というような意味をもつ。だが、ドゥルーズはそれを、彼独自の意味合いで使っている。例によって厳密な定義をしたうえで使っているわけではないので、文脈をたどることから意味をはっきりさせる必要がある。 ドゥルーズはシミュラークルをモデルとの二項対立において提示する。この二項対立は、事物そのものとそのイマージュ、オリジナルとコピーの二項対立と並べて提示される。だから、イマージが事物そのものの分有、コピーがオリジナルの分有であるように、シミュラークルはモデルの分有のように思われないでもない。ところがドゥルーズはそのようには考えない。イマージュとコピーの分有しているものが、事物そのものやオリジナルとの同一性或いは類似を根拠にしているのに対して、シミュラークルはモデルのなにも分有していないというのだ。シミュラークルの原理は同一性とか類似ではなく、差異だというのである。シミュラークルとは差異そのものの集合として提示されるのである。イマージュやコピーには同一性を根拠とする確かさのようなものがある。一方シミュラークルにはそんなものはなく、差異が寄せ集まっているだけだから、虚像のように見えるわけである。じっさいドゥルーズはシミュラークルについて言及するとき、虚像とか幻想ということばを好んで使うのである。 そのシミュラークルがプラトン哲学の転倒にはどのような役割を果たすのか。プラトン哲学とは、同一性を基礎とする哲学である。イデアは永遠不変の同一性である。その同一性を分有しているのがイマージュである。イマージュにはさまざまな色合いの区別があり、イデアに非常に似ているものから、一部だけ似ているものまでさまざまな段階がある。どの段階においても、何らかの面でイデアに似ているところがある。ところがシミュラークルには、そういう似ているところはない。モデルとシミュラークルの関係は、同一性や類似ではない。差異である。シミュラークルがモデルとかかわりあうのは、その二つが差異の関係にあるというだけの理由からである。 同一性に代えて差異を原理にたてること。これがドゥルーズによるニーチェ論の核心であった。その差異の原理を体現したものがシミュラークルであるとすれば、シミュラークルこそがプラトン哲学の転倒にとっての最高の原理となるわけである。プラトン哲学の本質は世界に秩序をもたらす意志にあった。ところがシミュラークルは秩序を破壊し、世界を差異のままに受容する。つまりニヒリズムの原理なのだ。「シミュラークルは、参加の秩序、配分の固定、ヒエラルヒーの決定を不可能にする。シミュラークルは、ノマド的な配分と、卓越したアナーキーの世界を作り上げる。シミュラークルは新たな根拠ではなく、あらゆる根拠を消滅させ、普遍的な崩壊を確実にする」(岡田、宇波訳)。 ルクレチウスは、ドゥルーズによれば、シミュラークルという言葉を初めて使った哲学者だそうだ。ドゥルーズの先駆者エピクロスがイドラと呼んでいたものをルクレチウスはシミュラークルと呼びかえた。エピクロスのイドラは皮相な憶念という意味だが、ルクレチウスのシミュラークルもそれをうけついで、人間の認識の表層部分をさしていた。それは、差異がそのままに自己を主張する世界であって、その世界をまとめるために全体とか同一性とか言った原理を必要としない。世界は与えられたそのままに受容すればよいのである。 プラトン哲学は、世界を統一的に説明するための原理として、神話を持ち出す。神話こそが世界の成り立ちを統一的に説明できるからだ。それに対してルクレチウスは、神話ではなく自然を原理とする。かれのいう自然とは、原理とは無縁なものである。自然にはたしかに因果関係がはたらいてはいるが、それは目的論とは全く関係がない。目的論は世界を統一的に解釈しようとするものだが、自然に立脚するルクレチウスの自然主義は、そうした統一原理を排除する。世界はばらばらの原子が偶然結びついて成立しているものなのだ。 ルクレチウスは、神話を排斥する。ドゥルーズによれば、ルクレチウスは最初の哲学者である。「最初の哲学者は自然主義者である。彼は神々について説くかわりに自然について説く。自然からそのすべての実証性を奪うような新しい神話を、哲学の中に導入しないことが彼の仕事である」。 |
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