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オイディプス帝国主義 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む |
「アンチ・オイディプス」と題する著作の中で、ドゥルーズ=ガタリが意図したのは、資本主義の批判であった。資本主義を根本から批判することで、その限界を明らかにし、別のもっとましなシステムへの展望を示すことがかれらの目的だったといえる。なぜ、そんなことを意図したのか。資本主義こそが西洋的な社会システムの行きついた先であり、したがってそれを超えなければ、新しい社会の展望は得られない。西洋の伝統哲学の解体を目的としてきたドゥルーズにとっては、資本主義こそが西洋文化の土台であるかぎり、西洋の伝統哲学を踏まえた思想はその土台の上に咲いたあだ花とみなすべきである。そのあだ花を、ドゥとルーズはガタリとともに、フロイトの精神分析に認めた。フロイトの精神分析こそは、西洋の伝統哲学の最終的な形なのである。したがって、フロイトの精神分析の思想を解体すれば、西洋の伝統思想の解体という理想に限りなく近づくことができる、そのように考えるのは不自然ではない。 フロイトの精神分析の中核概念はオイディプス・コンプレックスである。オイディプス・コンプレックスというのは、周知のように、個人がもっている無意識の欲望を抑圧するための装置である。その装置を通じて、個人を社会に適応させることが精神分析の仕事である。もっとも、その適応はほとんどの場合うまくはかどらない。したがって精神分析の患者に対しては、終わりの見込みのない治療が続くことになる。精神分析の患者は、神経症と診断される。神経症とは、一応社会的な適応はなんとかできているが、人間としての個人の生活に破綻が出ているケースである。言い換えれば、個人的な生き方を犠牲にして、社会への適応を強要されている人間をさして神経症患者というわけである。 資本主義社会というのは、資本の都合に個人を従わせることで成り立っている。素直に従える人間については、申すことはない。だが、なかなか適応できない人間については、なんとかしなければならない。その要請にこたえるのが精神分析なのである。精神分析は、個人を社会に適応させ、資本の都合に個人を従わせることを目的とした治療システムなのである。その治療がなかなかうまくいかないことは、前述のとおりである。神経症の患者についてもなかなかうまくいかないのであるから、分裂症などの精神病の患者については、もっとうまくいかない。というより、対応不可能である。なぜなら、分裂症者は資本主義の命じる欲望の抑圧から全く自由だからである。 精神分析の根本的な特徴は次のようなものである。まず人間を無意識と意識の混合体としてみる。無意識を動かしているのはリビドーである。これは精神的なエネルギーを意味するが、その中核には性欲がある。無意識のリビドーとしての性欲が、意識を支配して個人を性への欲望に駆り立てると、思わしくない結果が生じる。それゆえ性欲の源泉となっている無意識の欲望は抑圧されねばならない。その抑圧を可能にするのがオイディプスなのだ。オイディプスとは、性欲を抑圧するための偉大な装置なのである。その装置が社会の安定を保証する。だからオイディプスとは、資本主義の守護神としての役割を果たさせられているわけである。 フロイトは精神分析の普遍性を信じていた。ドゥルーズ=ガタリは、そんなフロイトに理解を示している。精神分析は資本主義の守護神としての務めを果たしている限り、その資本主義のシステムが現代の地球社会にとって普遍的なシステムであるのに応じて、精神分析もまた普遍的であると主張することには相応の根拠があると考えるからだ。そんな精神分析の普遍性を、かれらはオイディプス帝国主義と呼ぶ。帝国主義というのは、資本主義がグローバル化して、全世界を自己のシステムに組み込む事態を意味している。その帝国主義的な資本主義に対応する形で、オイディプス帝国主義が跋扈するとかれらは言いたいようである。 かれらはしかし、オイディプス帝国主義を、十全の根拠をもったものとは見ていない。資本主義にとっては都合がいいかもしれぬが、それは正しさとは無縁である。かれらはオイディプス・コンプレックス理論にはつくろい難い欠点があると考えている。その理由は、この理論が人間関係を個人や家庭のレベルに限定して考察し、社会的な視野を決定的に欠いていることである。かれらのオイディプス帝国主義論は、「精神分析と家庭主義」と題した第二章で展開されるのであるが、それはこの理論がもっぱら家庭を舞台としており、社会的な視野を全く欠いていると考えるからであろう。ドゥルーズ=ガタリは、人間の自己形成をもっぱら家庭内のこととして考える態度を批判する。人間はすでに幼児のころから社会に向かって開かれている。なにも両親だけがかれの人格を形成する要因ではないのだ。かれは社会からも、両親に劣らぬ影響を受けている。そうした影響の中でかれらが注目するのは、社会を動かしているさまざまな規範である。それらの規範は、社会の成員が共通して内面化しているものであり、そういう意味では、集団的な無意識といってよい。それをかれらは集団幻想といっている。それに比べてオイディプス・コンプレックスは、せいぜい家庭の中から生まれてくるのだから、個人幻想といってよい。しかし人間は、個人幻想だけで成り立っているわけではなく、集団幻想にもさらされている、というのがかれらの見方である。 かれらがフロイトよりユングを高く評価するのは、ユングが個人的な幻想よりも集団的な幻想のほうを重視したからだ。もっともユングの場合には、集団的な幻想にこだわるあまり、それが集団の成員の間で遺伝されるというような極論を吐くにいたったということはある。 かれらがオイディプス帝国主義という言葉を使いながら、オイディプス・コンプレックスを批判するのは、そうすることによって、資本主義システムの有効性に疑問を投げかけるためなのだろう。その疑問をともに、かれらは分裂者分析というものを精神分析に対置させるであろう。ともあれ、かれらが資本主義とその守護神たる精神分析を攻撃するのは、人間本来の欲望をそれらが抑圧していると思うからであり、人間がそうした抑圧から解放され、自らの欲望に忠実に生きる、つまり人間らしく生きるためには、他の道が必要なのだと言いたいのであろう。その場合、抑圧には無関心な分裂症者の生き方が大きな参考になると考えたのであろう。 |
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