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神経症と精神病 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む


神経症と精神病は、資本主義の生んだ障碍だとドゥルーズ=ガタリは考える。神経症は個人の資本主義への過剰な適応の産物であり、精神病は個人が資本主義への適応から脱落し、あるいはそこから排除された状態をさす、とかれらは考える。いずれにせよ、神経症も精神病(分裂症)も、資本主義に固有な精神障碍である。それらは、資本主義以前の社会においては、基本的には存在しなかったし、また、資本主義が死滅した後では、存在する根拠がなくなる。

要するに、神経症と精神病とは、資本主義が生んだ双生児のようなものである。だが、その相貌はかなり異なる。神経症は強迫観念を主体とした精神の不安というかたちをとるのが普通である。精神病のほうは、自我と世界との間に分裂が生じるという形をとる。自我と世界とは相互に親密にかかわりあうべきものだから、その両者の間に分裂が生じれば、それは自我自体の分裂をもたらす。つまり、精神病は心の不安というかたちをとり、精神病は自我の分裂・解体というふうな過程をたどるのである。

神経症は、オイディプス・コンプレックスと深いかかわりを持つ。オイディプス・コンプレックスは、近親相姦の禁止にまつわるものだが、その近親相姦禁止の要請は本来社会的な性格のものである。近親相姦を野放しにしていては、社会秩序が成り立たない。だから、近親相姦への欲望は抑圧されねばならぬ。その抑圧はしかし、社会が直接個人に課すわけではない。家族が社会に代わって家族成員に課すのである。つまり父母が子供に向かって、近親相姦はいけないことですよと教育するのだ。その教育は暗黙のうちになされるので、明確に意識されることがなく、したがって子どもは無意識のうちに近親相姦にまつわる規範を受け入れる。近親相姦にかぎらず、社会的に肝要な規範は、大部分が無意識のうちに子どもの中に刷り込まれるのである。

神経症は、そうした無意識の中で行われる、リビドーの衝撃と内面的な抑圧とが衝突することで発症する。大部分の人間は、無意識の衝動よりも、抑圧のほうが強いために、心がおかしくなることはない。しかし中には、無意識の衝動をコントロールできない者もいる。そういう者たちが、神経症に陥るのである。だから、神経症とは、社会不適応の現象なのである。精神分析は、その不適応を解消することで病気を治そうとするが、それは病気の根本的な原因である社会不適応を解消しない限りうまくいかない。じっさい、社会不適応は始末の悪いものなので、神経症が根治することは不可能に近いのである。

いずれにしても神経症は、社会への個人の適応をめぐる不具合によっておこる。この場合社会への適応とは、資本主義社会においては、資本主義システムへの適応ということを意味するから、神経症は資本主義システムとの齟齬が引き起こすとみてよい。資本主義システムになじめない個人が、神経症に陥るわけである。神経症の病因については、フロイトは徹底的に家族主義的な解釈を施したわけだが、ドゥルーズ=ガタリはもっと広い社会的な視野から神経症をとらえているのである。

一方、精神病のほうはどのようなメカニズムによって起こるのか。神経症が社会への不適応から起こるのに対して、こちらにはそもそも社会への適応という問題意識はない。もともと適応しようと思わないのだから、適応できないからといって悩むこともない。つまり、精神病者は、彼自身としては自分がおかしいなどとは思わないのである。したがって病気であるという意識は持たない。彼の意識を問題とするのは社会の方なのである。社会の方で、かれが、社会がその成員に課しているさまざまな決まり事を彼が守ろうとしないことを問題とするのである。性的な欲望は、社会防衛の見地からは、だれもが抑制せねばならない。ところが精神病者は、性欲を含めたさまざまな欲望をなんら抑制しようとはせず、勝手気儘に振舞っている。そういう態度を社会は許せないのであって、そういう態度を平然と行う個人を、社会は「気違い」と呼んで排斥するのである。そんなわけで精神病は、病気というよりか、社会性の欠如といってよい。

「気違い」であることは必ずしも病気であることではない」とかれらは言っている。「気違い」とは、社会に同調しようとしない者に対して社会が張り付けるレッテルである。社会としては、秩序に従わない者は排除するほかない。排除するには理由がいるから、とりあえず「気違い」というレッテルを以て、個人を社会から排斥するための理由としている、そのようかれらは捉えるのである。

精神病の病因らしきものをこのように抑えたうえで、彼らは精神病者(分裂者)の病状についておおざっぱな分析をする。精神病の病状について、かれらはそれを固定的ではなく過程としてとらえるべきだという。その前に、精神病者の基本的な態度について言及する。神経症の患者が、自分の社会への適応障害に悩んでいるのに対して、精神病者にはそのような悩みはない。かれらは自分の欲望に忠実であり、それを社会的な要請から抑制しようなどというつもりは全くない。だから、社会への不適応から病状が悪化するということはない。しかし、精神病の病状には様々な段階がある。その段階を踏むことを過程という言葉で表すことができる。もっともひどい病状は、社会との接点を失うことにより、完全に自分の中に閉じこもってしまうことである(自閉症の状態)。完全に自分の中に閉じこもり、外界との接点を失うと、その個人は人間として豊かな生き方をしているとはいえない。そういう状態をかれらは「器官なき身体」と呼んでいる。この奇妙な言葉には色々な意味が持たされているが、精神病とのかかわりにおいては、単なる肉の塊になり下がった状態を意味しているようである。その状態では、欲望を追求しようとする意欲もなくなる。

ところで精神病になりやすい個人の特徴は、自分の欲望に忠実ということである。人間社会は欲望する生産によって駆動されてきたとドゥルーズ=ガタリは考えるのであるが、その欲望する生産のもっとも徹底的な担い手が分裂者とかれらが呼ぶ人々なのである。そういう人々が、自己の欲望に忠実に従い、欲望する生産のよき担い手として、人間の欲望の全面的な開放を実現する主体となれば、人類社会には新しい可能性が開けてくるのではないか、そのように彼らは考える。そのように考えられた精神病者(分裂者)は、もはや病人ではなく変革者というべきである。




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