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原国家 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む


ドゥルーズ=ガタリの社会理論は、国家を中核概念として成り立っている。かれらは自らの国家論を、マルクスを常に意識しながら展開しているが、マルクスの国家は上部構造として扱われたのに対して、かれらの国家はあらゆる社会を成り立たせるための基盤あるいは土台である。かれらの社会理論は、原子土地機械の分析からはじまるのであるが、その原子土地機械の上に国家が成立する、その国家は、マルクスの国家とは違って、上部構造ではなく下部構造をなす。なぜなら、国家とは、かれらによれば、欲望の主体であり、その対象であるからだ。欲望とは精神現象としての上部構造ではなく、社会をなりたたせるための下部構造なのである。

かれらの国家論は、アブラハムへの言及から始まる。アブラハムは、ユダヤ教。キリスト教、イスラム教のいずれにおいても、現存する人類の直接の祖先と考えられている。そのアブラハムの物語は、アブラハムがウルの町を出発した時点から始まる。アブラハムはウルの町を出発し、カナーンの地に国家を建設した。それは一時になったとかれらはいう。その国家を彼らは「原国家」と呼ぶ。この原国家こそ、人類社会の究極のモデルなのである。これは、原始共産制とか、マルクのいう諸々の国家形態と並ぶ一つのタイプの国家というのではなく、すべての国家のモデルなのである。そうしたモデルとして、それはあらゆる時代を通じての、人類社会の共通するモデルなのである。ということは、人類社会は国家を前提とするものであり、したがってマルクスのいうような国家の死滅などということはナンセンス以外のなにものでもない。

原国家の概念は聖書をよりどころにして提起されたものだが、単なる観念的なモデルではない。それは歴史上に実在したと彼らは考える。その原国家、つまり最初の国家は専制君主国家という形をとった。そんなわけだから、あらゆる国家のモデルとしての原国家には、専制君主のイメージが付きまとっている。あらゆる国家が原国家をモデルとしている以上、専制君主のいない国家などありえないということになる。資本主義国家でさえ例外ではない。資本主義は民主主義と相性がよく、そこでの国家体制は民主的に運営されていると思われがちだが、実はそうではない。資本主義国家にも専制君主はいる。資本としての貨幣がそれである。資本主義は、貨幣の専制的な支配力によって動かされているのである。

国家の働きをかれらは、さまざまな勢力の利害を調整することだとする。そうした勢力は、大ぐくりでは階級を形成するから、階級間の利害の調整が国家の仕事ということになる。マルクスのように、国家を支配階級の道具だとする見方とはだいぶニュアンスが違う。マルクスによれば、国家は支配階級の利益に従属するものであり、したがって支配階級の利益のために間接的に力を及ぼすということになるが、かれらの考える国家は、自分自身の固有の意図として、直接的に力を及ぼす。なぜなら、国家は社会を駆動する欲望の主体であり、階級はその欲望を実現するための部分機械だからである。

かれらのこうした国家論は、国家一元主義というべきものである。であるから、人間社会のあるところ必ず国家がある。国家は人間社会の土台として、人間社会が成り立つための下部構造なのである。だから、国家の存在しないところには、人間社会も成り立ちようがない、ということになる。

人間社会は、現存するシステム、例えば資本主義システムに限界を感じ、よりましなシステムを形成しようと欲しても、国家という土台そのものを破壊するわけにはいかない。国家を破壊しては、人間社会そのものの成り立つ基盤が失われてしまうからだ。それゆえ、国家を基盤として、どのようなシステムに切り替えるかということが問題になるにすぎない。彼らの言葉でいえば、国家は全体機械であり、資本主義システムは部分機械である。それゆえ人間社会の変革は、部分機械を入れ替えて、全体機械の故障を修理するということになる。

こうした社会の変革には、前例がないわけではない。それは、ヨーロッパ社会がキリスト教国家に変革されるに際して、問題となった。この問題に直面したキリスト教徒たちは、ローマ社会の土台を活用し、それの不具合を治しながらキリスト教国家を立ち上げるか、あるいはローマ社会を見捨てて、その外部に新しい神の国を建設するかという二項対立に直面した。歴史の教えるところは、ローマの土台のうえに、キリスト教国家を立ち上げたということになるが、それは結果論で、上述のような選択はあったのである。その選択をかれら次のように表現している。「ローマの客観的世界の内部に見いだされる諸要素をもって、できるだけ<原国家>を再建しようとしていた人々と、荒地に向かって再出発し、新しい団結を築きなおして、シリアやエジプトから超越的な<原国家>の霊感を受けなおそうとしていた人々との間に」選択肢が示された、と。

こうした議論は抽象的に聞こえるが、しかし資本主義以後の問題として捉えれば、俄かに現実味を帯びる。資本主義の盤石性や永続性を信じる者は、資本主義を全く別の社会システムに置き換えることはばかげていると思うだろうが、ドゥルーズ=ガタリは、資本主義はその限界に直面しており、つまり故障しているので、かなり手荒な修理が必要だと考えている。その場合に、かつてのキリスト教徒がローマという土台を残したまま、キリスト教の要素を内在化させるか、あるいはローマを捨てて、砂漠の中にキリスト教の王国を建設するかの選択にせまられたのと同じ事態が起きる。しかし、かつてのキリスト教徒と違って、資本主義の批判者には全く手つかずの新しい土地は存在しない。だから、現存する資本主義を抜本的に解体して、そのうえに新しいシステムを打ち立てるしかない。そこまでする必要があるのかという批判に対しては、資本主義のシステムは人間性本来のあり方をあまりにもゆがめている。その程度は救いがたいほどひどいので、もはやそのままにしておくことはできない、というのが彼らの答えであろう。




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