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分裂者分析の積極的任務 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む


ドゥルーズ=ガタリは、精神分析と分裂者分析とを資本主義分析の二つの対立しあう理論体系として捉える。分裂者分析という奇妙な言葉を発明したのはかれらだが、それはフロイトの精神分析に一定の敬意を払っているからだろう。精神分析は資本主義の従僕として、それに帰属し、資本主義の利益のために働く。それに対して、分裂者分析は、精神分析の虚偽性をあばき、精神分析が提示する欺瞞的な概念たるオイディプスに攻撃を加える。分裂者分析の役割は、なににもまして破壊にある、「破壊せよ。破壊せよ。分裂者分析の仕事は破壊を通じて行われる」(市倉訳)。分裂者分析は、「全力をあげて必要な破壊に専念しなければならないのだ。信仰や表象を、劇場の舞台を破壊せよ。そしてこの仕事に従事するためには、分裂者はいかに敵意ある活動をするとしても、決してしすぎるということにはならないであろう。オイディプスと去勢とを破壊せよ」。

こうした破壊的・否定的な任務とならんで、肯定的・積極的な任務を分裂者分析は帯びている。その任務としてドゥルーズ=ガタリは二つあげている。まず、「分裂者分析の積極的な第一任務」は、「ひとりの患者に即して、この患者の欲望する諸機械の本性、その自己形成{発育}、その作動を見出すことにある」。というわけは、患者としての諸個人は、無意識のうちに備給された抑圧を通じて、みずからの内なる欲望する機械をそこなっている。人間というものは、かれらによれば、欲望する機械として、自己の欲望を最大限発揮し、それによって人間らしく生きるように作られているはずなのに、無意識による抑圧を通じて、本来追及すべき欲望が抑制されている。したがって、その欲望を解放するためには、上述のような、分裂者分析の手法を用いて、欲望する諸機械の本性を理解する必要があるのである。

精神分析の主体としての分析医は、魂の医者を気取っているが、分裂者分析の実施者は、そんなふうには気取らない。かれらは自分を技師として自覚している。「分裂者分析を行うものは、ひとりの機械技師であり、分裂者分析はひたすら機能的なるもの」なのである。

この場合、何が人間の本性なのかということについて、正しい理解を前提としてもっていなければならない。でなければ、分裂者分析を用いて本来の人間性を回復させることはできない。本来の人間性とはなにかについて明瞭な観念をもっていないものが、本来の人間性を回復させるなどナンセンスではないか。

人間性というと、ひとは自己同一的な全体的存在というふうに考えがちである。人間という存在者は、有機的な体系としての全体者であって、その全体者として自己同一性を維持し、自分に備わっているさまざまな器官や能力を通じて、ひとりの人間として行動する。器官や能力は、全体としての人間の要素をなすものであって、それらの要素は全体としての個人のために動員される。そのような関係として人間をイメージするのが普通である。

ところがドゥルーズ=ガタリはそのようには考えない。かれらは全体と部分、すなわち人間存在とそのさまざまな器官との関係を、部分が全体に包摂されるとは考えないのだ。部分が全体に包摂され、全体としての個人の利益のために奉仕するというふうには考えないのである。では、どのように考えるのか。

単純化していうと、部分は部分として自立した存在であり、それ自体の都合に応じて活動するのであって、単に全体のために奉仕するわけではないと考えるのである。「欲望する諸機械の部品や要素には、それらが相互に依存しないで独立しているという性格が認められる」とかれらはいうのだ。「種々の器官やこれらの器官の諸断片は、ひとつの有機体を何ら指示してはいないのである。一つの有機体とは、失われた統一体ないしは来るべき全体性として幻覚的に機能するもののことであろう」。

このように個人が有機的な統一を保たず、さまざまな器官がてんでばらばらに活動するというイメージは、まさしく分裂症患者のイメージである。分裂症患者は、自己同一性の障害を病因としていると捉えられ、そのことが否定的に受け取られるのであるが、しかしドゥルーズ=ガタリは分裂症者を、治療すべき病人とはみていない。むしろ、欲望する生産という人間性本来の機能を、十全に発揮できる条件を備えたものとして捉えるのである。

したがって、分裂者分析の役割は、人間のもっている欲望する生産という機能を、最大限自由に発揮させてやることにある。ドゥルーズ=ガタリは、資本主義はこの欲望する生産という人間本来の機能をゆがめて、それを資本の再生産のための道具に貶めた。精神分析は、そうした目論見に加担する。資本主義と精神分析はだから、自由な人間への敵対者なのである。

分裂者分析の第二の積極的任務は、四つの命題で表現される。一つ目の命題は、「一切の備給はモル的社会的である」というものである。この命題の意味は、資本主義社会においては、資本主義の社会的な要請が個人の無意識に備給されるということである。それは具体的には抑圧というかたちをとり、その抑圧がオイディプスを生み出すのであるが、それは資本主義のシステムを再生産することに役立っているわけである。

二つ目の命題は、「階級ないしは利害の前意識的備給と、集団ないしは欲望の無意識的リビドー備給とを区別すること」である。これは、「革命の客観的利益をもつ、あるいはもつにちがいない多くの人々が、何故、反動的な型の前意識的備給を失わないでいるのか。もっと稀なことではあるが、客観的に反動的な利益をもつ若干の人々が、いかにして、革命的な前意識的備給を働かすことになるのか」という疑問を解明する有力な手掛かりである。ひとは複雑な生き物であるから、自分が属する階級の利害に盲目にならない場合もある。

三つ目の命題は、「社会野のリビドー備給は、種々の家庭的備給より先なるものである」というものである。これは、家庭ではなく社会が、個人の自己形成に決定的な役割を果たしているということを意味している。家庭は社会の要請を伝達するための機能は果たすが、それ自体として自立的な機能を果たすわけではない。ところがフロイトの精神分析は、家庭の背後にあって、家庭を強く支配しているものを見ずに、あたかも家庭こそが、個人の人格を形成するうえで全面な機能を果たしていると虚構した。そうしたやり方は排除されねばならない。個人の自己形成は社会の要請を受ける形で社会的になされるのである。

四つ目の命題は、「この分裂者分析がリビドーの社会的備給の二つの極<パラノイア的、反動的、ファシズム的な極と、分裂気質の革命的な極>を区別するということである」というものである。「パラノイア的な備給と分裂症的な備給とは、いわば無意識的なリビドー備給の対立する両極をなすものである。その一方の極は、主権形成組織体やこの主権形成組織体に由来する群衆{心理}集合に、欲望する生産を従属させる極であり、いま一方の極は、現実にこの従属の関係を転覆して、欲望の生産活動の分子的多様性に、群衆{心理}集合を従属させる極である」。これら二つの極の対立は、具体的には次のようなものである。「一方は分裂者分析的、他方は精神分析的、一方は分裂症的、他方はオイディプス的神経症的、一方は抽象的非形象的、他方はイマージュ的(想像的)、一方は実在的具体的、他方は象徴的、一方は機械的、他方は構造論的、一方は分子的、ミクロ心理的、微少物研究的、他方はモル的あるいは統計学的、一方は唯物的(質量的)、他方はイデオロギー的、一方は生産的、他方は表現的,等々」。

以上を踏まえてドゥルーズ=ガタリは、分裂者分析の次のように規定する。「分裂者分析の任務は、最終的には、それぞれの場合に、次のものを発見することにあるということになる。社会野に対する種々のリビドー備給の本性。これらのリビドー備給の内面的葛藤の可能性。これらのリビドー備給と、同じ社会野の前意識的諸備給との関係。これらの両備給の葛藤の可能性。要するに、欲望する諸機械と、欲望の抑制との全面的な相互作用。といったものを発見することに。大切なことは、<過程>そのものを完成させることであって、それを停止することでも、それを空転させることでも、それに目標を与えることでもない」。




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