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平滑と条理 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む


「千のプラトー」の第十四のプラトーは「平滑と条理」と題する。文字通り平滑と条理との二項対立がテーマである。この二項対立は、第十二のプラトー「遊牧論あるいは戦争機械」の中でも議論されていた。その際には、遊牧民が平滑空間を、定住民からなる国家が条理空間を舞台に生成発展するということが強調されていた。この第十四のプラトーにおいても、平滑と条理とはいずれも空間のタイプとされ、平滑(滑らかな)空間は、遊牧民族空間と戦争機械が展開する空間と結びつけられ、条理(区分された)空間は、定住民空間及び国家装置によって設定される空間と結びつけられる。そのうえで、「二つの空間の単純な対立、その間の複雑な差異、事実上の混合および一方から他方への移行、平滑から条理または条理から平滑への移動を、まったく異なったものとする非対称的な混合の比率。こうして、二つの空間とその関係の変化する諸相として、いくつかのモデルを考察することが必要になる」(宇野ほか訳)とする。

以下、平滑と条理との様々な関係について、技術的モデル、音楽モデル、海洋モデル、数学モデル、物理学モデル、美学モデルに従って考察している。それぞれがなかなか興味深い論点を含んでいるが、ここでは海洋モデルと物理学モデルについて取り上げたい。この二つは、いかにもドゥルーズ=ガタリの彼ららしさが現われていると思えるからである。

まず、海洋モデル。海洋は平滑空間そのものであるにかかわらず、条理化の要求に早くから直面してきた。海洋の条理化とは、海洋を国家の領海に組み入れることである。それは外洋航海術の発展にともなっていた。海洋空間は、天文学と地理学という二つの成果にもとづいて条理化された。それにもっとも早く成功したのはポルトガルである。このプラトーのタイトルに含まれている数字1440は、海洋の最初の決定的な条理化が起き、大発見が可能になった転換点の年のことなのである。

そんなわけで、海洋は、「単にすべての平滑空間の原型であるだけでなく、最初に条理化をこうむった空間でもあるかのようだ。条理化は徐々に広がっていき、あらゆる場所、あらゆる面を碁盤割にする」とかれらは言うのだ。そして、「平滑空間の原型である海は、同時にあらゆる平滑空間の原型となったのだ」とも言う。砂漠の条理化、空の条理化、成層圏の条理化といったものも、海の条理化を原型にしているというわけである。

都市は、海の対極として、条理空間の原型だといえる。海が平滑空間でありながら条理化の圧力を受けるように、都市は条理化空間でありながら平滑化への傾向を有する。都市においても、「平滑的に住むこと、都市の遊牧民となることができる」。このように、平滑と条理は、単に二項対立の関係にあるだけではなく、移行、交代、重なり合いの関係にもある。そうした関係は、現代においてますます進んでいる、とかれらは言う。

次に、物理学モデル。それを論じる前に、なぜ物理学か、という疑問が沸くかもしれない。かれらがこのプラトーで論じているのは、主に労働についてなのだが、その労働が物理学と深いかかわりがある。労働は、かれらによれば、物理学と社会学を駆使して分析する必要がある。「社会学は労働の経済学的測定方法をもたらし、物理学はといえば、仕事についての『力学的な貨幣』を与えたのだ」。労働の原型は、かれらによれば、公共土木工事である。「標準的人間は、まず公共土木工事のための人間だったのだ」。公共土木工事は、まさに条理化された空間を前提とする。条理化された空間における、管理された労働、それが公共土木工事の本質的なあり方である。「平滑空間における自由活動は敗北しなければならなかった」のである。

管理された労働による公共土木工事が成り立つためには、労働の余剰あるいは余剰労働が存在せねばならない。その余剰労働を国家が組織して公共土木工事を行うのだ。というより、国家がはじめて労働の有効な使い方を発明したのだ。国家による労働の使い方は、「時空間の条理化という普遍的な操作、自由活動の隷属化、平滑空間の廃絶」などをともなう。こうした労働の使い方を、資本主義も受け継いでいる。かつて国家の占有するところだったものを、いまでは資本が有効利用している。戦争機械についても、かつては国家がそれを占有していたが、いまでは資本がそれを有効利用している。資本は戦争が好きなのだ。

アメリカの原住民であるインディアンが絶滅せざるを得なかった理由の一つに、インディアンが管理された労働に服する能力を持たなかったことがあげられる、とかれらは考えているようだ。その穴を埋めるために、アメリカ人(白人)たちは、あんなに多くの黒人たちを連れてきて、労働に服させた。いずれにしても労働は、その全体が余剰労働であり、労働の再生産に必要な時間と、搾取される時間とに分離することは意味がない、とかれらは考える。労働は、資本主義システムのもとでは、そのすべてが資本のものなのだ。搾取された労働だけが資本のものなのではない。それでは奴隷と違わないと言う人もいるであろう。そのとおりだと彼らは言うのではないか。

このプラトーの末尾を、かれらは次のように結んでいる。「われわれの関心は、まさに条理化と平滑化のさまざまな作用における移行と結合にある。空間は、そこに行使される力に拘束されて、たえまなく条理化されるが、それはどのようにしてか。また同時に、空間が他の力を発展させ、条理化を通じて新しい平滑空間を出現させるのはどのようにしてか。最も条理化された都市さえも平滑空間を出現させるのだ」。

「千のプラトー」と題したこの書物は、「アンチ・オイディプス」とともに、資本主義の批判と資本主義後の社会の可能性をテーマとしたものだった。その最後を飾るこのプラトーで、かれらは条理空間と平滑空間の相互関係をテーマにしたわけだが、かれらがそれで言いたかったことは、条理空間上に展開する資本主義のシステムにも、平滑空間が忍び込む可能性がないわけではない、ということのようである。




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