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哲学とは概念を創造することである ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」を読む


哲学とは何かという、ドゥルーズの晩年に到来した問にたいして、かれはそれを、「哲学とは概念を創造することである」と答える。そこで概念という言葉が何を意味するかが問題になる。ドゥルーズは例によって、真正面から答えないし、厳密な定義にこだわりもしない。とりあえず、一つの言葉として提示するのである。その厳密な内実は、そのうちおいおい明らかにすればよいと考えているようである。

だいたいドゥルーズは、「差異と反復」など初期の業績の中で、「哲学とは何か」などと問う前に、西洋の哲学的な伝統の批判とその解体を始めていたのである。批判の対象となる哲学は、ギリシャ以来の哲学の伝統としてすでに与えられたものであった。与えられているものをかれはとりあえず批判したのであって、その与えられているものが、いったい何者であるのかについては、そんなに気にする様子がなかった。そんなに気にしなくても、哲学は壮大な体系として確固とした存在感を誇っていたので、とりあえずそれを所与のものとして、立ち向かえばよかったのである。

ところが、晩年にいたったドゥルーズは、はたして自分が立ち向かっていた相手(つまり哲学)を、自分は本当に理解していたのか、不安になったようである。もしきちんと相手がわかっていないのなら、(ドン・キホーテのように)相手を別のもとの取り違えていたことになり、その相手をめぐる自分なりの努力には、実在的な根拠がなかったということになりかねない。それはやはり喜劇というべきだろう。晩年になって自分を喜劇役者と思わざるを得ないのは、やはりつらいことに違いない。そこでかれは、あらためて自分が相手にしてきたことを確かめるつもりで、哲学とは何かという問を問い直し、その問が晩年に至った自分に到来したのだと見栄をはったのではないか。

ともあれドゥルーズは、晩年になってあらためて「哲学とは何か」という問を発し、それにこたえる形で、「哲学とは概念を創造することである」と言うのである。概念の創造というアイデアは、すでに初期の業績の中でも触れられてはいた。とりわけニーチェ研究の文脈の中で、概念の創造ということが言われた。ニーチェにとって問題は、既存の事実を解釈することではなく、世界にとってまったく新しいものを創造することであった。凡人にはそんなことができないから、一部のエリートである超人がその創造を担う、超人による新たなものの創造が、人類を全体として高みに引きあげる、というのがニーチェの思想の核心的部分である。ドゥルーズはそうしたニーチェの創造の思想を受け継ぐ形で、哲学とは概念の創造であると言ったのであろう。

その概念について、ドゥルーズはかなりユニークな捉え方をしている。ドゥルーズが概念についてまず言うのは、「概念は一つの多様体である」ということだ。「ただ一つの合成要素しかもたない概念というものは存在しない」。たとえば、「他者は、<可能的世界>、<存在する顔>、<リアルな言語活動あるいはパロール>という三つの分離不可能な合成要素からなるひとつの概念である」。ほかの総ての概念も、「他者」と同様一つの多様体である。それらもまた多様体として、いくつもの合成要素から構成されている。概念相互には、まったく無関係なものもあるが、中には合成要素によって互いに結びつくものもある。その結びつきが概念に相対性をもたせるとドゥルーズは言う。この合成要素からなる多様な構成体というアイデアは、初期のセリー構造の理論を思わせる。

そこで、概念の創造というとき、それは無からなにかを作るのではなく、いくつかの合成要素を組み合わせてある新しい多様体としての概念を作り出すということを意味するであろう。創造とは、無からの生成というより、思いがけないものを組み合わせて今まで存在したことのない新たな概念を作り出すことを指すらしい。その場合、その創造はどのようにして行われるかということが問題となる。ドゥルーズは、概念の創造は精神的な営みであることを前提にして、その創造の場としての内在平面なる、これもまたドゥルーズ流の新しい概念を持ち出す。内在平面というのは、精神に内在するという意味と、空間的な意味を含んでいる。精神に内在する特殊な空間を舞台に、概念創造という精神的な行為が営まれるというわけである。ひとは無からなにかを作ることはできないし、また全くの無前提から出発するわけにもいかない。内在平面は、何かをつくるための前提を提供するものとイメージされている。別の言葉でわかりやすく言えば、思考の枠組みのようなものである。ひとはそうした枠組みを用いて思考活動を行うのである。

その思考活動を行う主体をドゥルーズは概念的人間と呼んでいる。これは人間のタイプを指す概念ではなく、人間の活動のうち、概念的な活動すなわち哲学を行うという面に注目した言葉である。科学を営む人間や芸術に携わる人間は、また別の言葉で呼ばれるであろう。

ともあれ概念の創造は内在平面を舞台にして行われるのであるから、内在平面が異なれば概念の体系も異なるであろう。デカルトにおける概念体系のあり方は、カントのそれとは違っている。ドゥルーズは言う、「カントがデカルトを批判するということ、これが意味しているのはただ、カントが、デカルト的コギトによっては占拠されえない一つの平面を打ち立て、デカルト的コギトによっては実現されえないひとつの問題を構築したということだけである」。こうした認識の土台についての議論は、クーンの「パラダイム」とか、フーコーの「エピステーメー」を思わせる。だが、パラダイムやエピステーメーは哲学者個人レベルの問題ではなく、ある一定の時代を画するような概念であった。それにくらべれば、ドゥルーズの「内在平面」は、個人ごとに、というのはまともな人間単位に成立する。まともな人間が複数存在すれば、その人間の数だけ内在平面は成立するというわけである。

問題は、人間にとって全く未知の経験へと導いてくれる新しい概念を創造することである。それゆえ、「批判ばかりして創造しない者、概念が消え去らないように守りを固めるだけでそれに復活の諸力を与えることのできない者、これは哲学にとって厄介者である」。




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