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哲学、科学、芸術 ドゥルーズ=ガタリ「哲学とは何か」を読む |
ドゥルーズらは、人間の精神的な活動、それをかれらは思考と呼んでいるが、その思考の様式を三つに分類している。哲学、科学、芸術である。これら三つの思考の形は、それぞれ独立したものであり、互いに融合してしまうことはない。それぞれの対象、その対象を思考するメカニズム、そしてその思考の主体のあり方がそれぞれ違うからである。対象については、哲学は概念を、科学はファンクションを、芸術は感覚を対象とする。これらはみな精神的な働きという点では共通しているが、やはり根本的な相違がある。だから全く別のものと考えるほうが良い、とかれらは言うのである。 そんなわけで、この著作の後半部は、哲学と科学の関係についての微細な議論から始まり、それに芸術を加えて、人間の精神的な活動の諸相について詳細な分析を加えるのであるが、それによって彼らが目指すのはなにかというと、カオスとしての世界への人間のかかわり方ということのようである。かれらにとって世界とはカオスなのである。カオスはそのままでは人間の手に余るものである。というか、人間を脅かすものである。それゆえなんとかそれを手なずけて、人間の意のままになるようにせねばならない。哲学と科学と芸術は、そうした要請にこたえるための三つの形なのである。 哲学はカオスを概念の枠組みにあてはめて理解する、科学はカオスをある座標軸からなる関数に当てはめることでものの状態の変化を予測する、芸術はカオスから不気味なものを取り入れ、その威力を利用して感性の活性化をはかる、という具合に整理できる。こうしたイメージは、カントを想起させる。カントは感覚的な与件を前提として、それに様々な精神的な働きを加えることで、世界の認識がもたらされると考えたわけだが、そのカントの言う感覚的な与件をカオスととらえ、精神的なはたらきを哲学・科学・芸術に置き換えれば、ドゥルーズらの図式になるわけである。 カントは、悟性的なはたらきと理性的なはたらきとは違うと言った。そのうえで科学的な認識を悟性の働きと結びつけ、宗教的な感情を理性と結びつけた。ドゥルーズらの場合、そんなに単純ではない。かれらはカントのように人間の精神的なはたらきを悟性と理性に分けるようなことはしない。哲学・科学・芸術という具合に分けるのである。そしてその三者はそれぞれ違った仕方でカオスと取り組むというふうに考える。取り組み方が違えば、世界の見え方も違ってくる。哲学においては、世界は多様なものが矛盾なく並立できるようなものとして、科学においては、世界はある一定のファンクションに当てはめられる結果、矛盾の付け入る余地はない、芸術においては、カオスはカオスとして見えてくる。ただ見えてくるだけではなく、ステロタイプな(紋切り型の)見え方を打破するような力を発揮する。 カオスとの関わり合いにおいて、科学と芸術とは対極的である。科学はカオスのカオスたる所以を一掃する方向をめざす。芸術はカオスの持つ力を利用しようとする方向をめざす。では、哲学はどうか。「哲学者がカオスから持ち帰るものは、或る諸変化=変奏である」(財津訳)とかれらは言う。わかりにくい言い方だが、ドゥルーズの過去の業績から推し量れば、要するに世界を差異の集合としてとらえるのであろう。差異がそのまま差異としてとらえられ、そこに同一性や類似を見なければ、カオスはカオスとしてそのまま生かされてしまうのではないかという疑問が沸く。その疑問にこたえるには、(同一世や類似に代わる)何らかの別の原理を持ち出さねばならない。かれらがとりあえず持ち出すのは「オピニオン」である。 オピニオンについては、かれらは両義的な態度をとっている。オピニオンは一方では臆見である。それは人々にものの見方を教えてくれる。ものには色々な見方があるから、どれか特定の臆見が特権的な威力を振るうということにはならない。もろもろのオピニオンは、それぞれ対等な資格で張り合う。哲学者の役割は、新しい概念の創造を通じて、新しいオピニオンを追加することである。そうしたことがすでにギリシャにおいて行われていた。ギリシャでは、「哲学者たちは、友たちにすぎず、<宗教的>賢者ではないので、臆見から離れるというのはなかなか難しいことなのである」。 だが、臆見は芸術にとっては打破すべき相手である。なぜなら臆見は紋切り型のものであるからだ。芸術は紋切り型を嫌う。一方哲学も、ドルーズによれば差異を生命とするものであるから、やはり紋切り型を嫌う理由はある。そこで自分自身はオピニオンの創造者としてふるまいながら、オピニオンに対して批判的なふりをせねばならない。でも普通の哲学者にできることは、オピニオンを作ることくらいしかないのだ。それは人間の脳がそのようにできているからだと彼らは言う。「構成された科学的対象として扱われる脳は、オピニオンの形成とそのコミュニケーションの器官でしかありえない、ということに驚いてはならない」。だから、オピニオンを打破するような哲学をやれるためには、特別の脳を持たねばならない、ということなのか。ドゥルーズは、この著作の中では超人には一切触れていないが、どうやら議論の前提の中に織り込んでいるようである。なぜなら、オピニオンを打破するような脳を持つ人間は、超人以外には考えられないからだ。 かれらの本音は、オピニオンを打破して、前代未聞の新しい概念を創造できるような人間をイメージしたいということである。オピニオンに追従して、頭を働かせないのは、疲労のしるしである。そうした疲労した人間のイメージをかれらは「老人」と称した。そのような老人たちは、「自分の空になった頭の内部で、緩んだオピニオンを追い求め、たったひとりで語りながら淀んだディスカッションを養っている」のである。 最後に、哲学、科学、芸術という三つの形は、それぞれ相互に干渉しあわないことが確認されたうえで、クレーのように、「ひとりの芸術家が、概念についての、あるいはファンクションについての純粋感覚を創造する」ケースもあると示唆している。それは芸術家が他の二つのもの(哲学と科学)に干渉するということを意味するが、しかしそれは外的な干渉であって、内因的なものではない。 |
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