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イデオロギーとしての技術と科学:ハーバーマスの後期資本主義論


ユルゲン・ハーバーマスの論文集「イデオロギーとしての技術と科学」は、彼の初期の仕事で、その後彼が展開する思想の萌芽のようなものが提起されているということだが、なかでも最も力を入れて論じているのは、後期資本主義における科学・技術の問題だ。この問題を彼は、ヘルベルト・マルクーゼへの批判を通じて論じている。マルクーゼは資本主義の発展における科学・技術の役割の重要性を強調した始めての思想家というふうにハーバーマスは評価したうえで、マルクーゼが科学・技術がもっぱら資本主義を延命させる役割を果たしていることを指摘し、それへの対抗として、人間の解放につながるような科学・技術のあり方を模索したことを厳しく批判した。ハーバーマスによれば、科学・技術のあり方は、ただ一つしかないのであり、マルクーゼのいうような人間の解放を目指すような別の形の科学・技術のあり方などというものは存在しない。だから、もしもマルクーゼのいうような人間の解放を目指すなら、現存する科学・技術を前提として、それをどのように利用したらいいかを考えるのがまともなやり方だ、とハーバーマスは言うのである。

「マルクーゼは、社会を分析するにあたって、技術と支配権力の融合、合理性と抑圧の融合という現象に執着した」(「イデオロギーとしての技術と科学」長谷川宏訳)。技術そのものがいまや体制の基礎となっている。マルクスは生産力の拡大が体制批判の基礎となるとしたのだったが、いまやその生産力の実体となってしまっている技術が体制を強化するものになっているのだ。だからマルクーゼは、「科学と技術そのものが革命的にならないかぎり、解放ということは考えられない」と結論したわけだ。

マルクーゼのこの論理展開のうち、前段の、現代資本主義にかかわる認識の部分については、ハーバーマスも大方同意しているようだ。「科学と技術は第一次生産力になり、マルクスの労働価値説の適用条件をみたさないものとなる」。科学・技術の発展は、たんに生産力の拡大をもたらしただけでなく、生産力の最大のエンジン、というより生産力そのものと同義になってしまった。マルクスにあっては、生産力の実体は労働であったわけだが、いまや科学・技術が生産力の実体となる。そういう変化の中で、「技術的理性という概念は、おそらくそれ自体がイデオロギーである。技術の利用ではなく、技術そのものがすでに(自然と人間に対する)支配であり、方法的、科学的、功利的、打算的な支配である」。ハーバーマスはこのようなマルクーゼの言葉を引いて、後期資本主義において科学・技術が果たしているイデオロギー的な役割を強調するのである。

後期資本主義の認識という点でハーバーマスがマルクーゼと異なるのは、国家の役割を重視するところだろう。国家の干渉は資本主義体制の安定を図るために要請されたものだが、今日では資本主義の枠組みそのものとなっている。いまでは国家なき資本主義は考えられない。その結果、「政治はもはや単なる上部構造とはいえなくなった」。上部構造ではなく、社会全体を支えている基盤、あるいは枠組みとなっている。そういう社会では、階級対立は停止する。「国家に規制される資本主義は、あからさまな階級的敵対のうむ体制への危険への反動として生じてきたものだが、この資本主義のもとでは、階級対立は停止する」(同上)というわけである。

したがって、「階級対立とイデオロギーという、マルクス理論の鍵となるふたつのカテゴリーは、もはや無条件にこの社会に適用することができない」(同上)。国家の干渉によって階級対立が停止する一方、体制批判の概念としてのイデオロギーは、特定の社会階級を代表するという存在理由を失ったように見えるからだ。

こうしたわけでハーバーマスの後期資本主義論は、マルクス理論との対立を強く浮かび上がらせる。マルクスの資本主義論は、国家を視野に入れていない、完全な自由市場を前提にしたものだが、そうした前提がもはやなくなり、全く違った前提が働いているところでは、社会理論も違った形態をとらねばならぬというわけである。

そこで、ハーバーマスは後期資本主義の孕む問題をどのように捉え、それをどのように克服しようと考えているのか、が問題となる。ハーバーマスは後期資本主義の最大の問題は、その非民主的な性格だと考えているようである。後期資本主義の体制は国民大衆を非政治化する。後期資本主義を駆動させている科学・技術の発展は民主的な討論とは無縁のところで進む。こうした事情が相互に働きあって、後期資本主義の体制は必然的に非民主的にならざるを得ない。しかしそれは人間の開放という視点からは由々しい事態だ。人間というものはやはりさまざまな可能性に対して開かれていなければならない。そうでなければ味気ない大衆として、権力による操作の対象となるだけだろう。

こうした事態に対してハーバーマスの持ち出す処方箋が「コミュニケーション」ということらしい。コミュニケーションとは、自由な個人の間に交される自由な討論のことをいうようだ。この自由な討論を通じて、社会を構成する諸個人が、共通の目標を見出してゆく。そしてその目標に支えられながら、民主的な社会のあり方を模索してゆく。どうもこんなイメージをハーバーマスは考えているようだが、この論文集ではそれを詳しく展開するまでには至っていない。





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