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労働と相互行為:ハーバーマスの初期ヘーゲル論


労働と相互行為は、言語(記号表現)と並んで、精神の自己形成のうえで三つの決定的な契機をなすものである。カントが言うように、まず自己意識としての精神があって、そこから人間の間の相互行為や自然を対象とした労働、あるいはコミュニケーションが生じてくる、のではない。逆に労働・相互行為・言語の弁証法的な過程のなかから自己意識としての精神が生まれてくる。こう喝破したのは、「イエナ精神哲学」を講義した頃の初期のヘーゲルであった。ヘーゲルはこの三つの弁証法的な要素から相互行為(相互承認)を重点的に取り出し、それをもとに精神現象学の体系を作り上げたが、それはハーバーマスにとっては、ヘーゲル思想の豊穣さが損なわれる結果につながった。やはりこの三つの要素をともに生かす形で、ヘーゲルの初期思想を再構築し、そこから現代の問題性に対応できるような哲学を構築する必要がある。このような問題意識に導かれながら、ハーバーマスは「労働と相互行為」と題する小論を書いたのだと思われる。この小論はだから、初期ヘーゲルの再発見をテーマにしたものと言える。

労働は、精神現象学においては、主人と奴隷の関係という文脈の中で論じられ、したがって社会的な性格のもととして論じられるが、イエナ精神哲学においては、自然と人間との相互関係として、人間がそれを通じて自己を形成する重要な契機として捉えられていた。労働は道具を用いて行われる。「記号が同一物の再認識を可能にするとすれば、道具は自然過程を任意にくりかえし征服するための規則を定着させる」(「労働と相互行為」長谷川宏訳)。ともあれ人間は労働を通じて、自然を征服し自己を形成してゆく、というふうに捉えられている。

相互行為は、精神現象学においては、人間同士の相互承認の過程として捉えられ、人間とはこの相互行為の過程を通じて弁証的に成立してくるものだと捉えられる。自己というものがまずあって、それが他者とかかわりあうのではない。人間同士の相互行為というもの(場)があって、その場の中から自己と他者とが生まれてくる、そうヘーゲルは捉えたわけだ。「ヘーゲルの自己意識の弁証法は孤独な反省の関係を超えて、相互に承認しあう個人の相補的な関係におよんでいる。自己意識の経験はもはや根源的ではない。ヘーゲルによれば、それはむしろ、他人の目で自分を見ることを学ぶ相互行為の経験からの派生物である」(同上)

ヘーゲルの相互行為についてのこの捉え方は、イエナ精神哲学でも基本的には同じだ。ただ、精神現象学では相互行為に重点が置かれるあまりに、労働の影が薄くなっているのに対して、イエナ精神哲学では、両者に同じ比重が置かれているということだ。

マルクス自身は、このイエナ精神哲学は読んでおらず、もっぱら精神現象学をもとにしてヘーゲルの思想を汲み取ったと思われるが、それでも彼は、ヘーゲルの労働論を手がかりにして、自身の独自の労働観を築き上げた。周知のようにマルクスは、労働こそが人間の類的本質の不可欠の要素をなすものであり、にもかかわらず、その労働から疎外されることで、人間は自分自身の本質から疎外されていると捉えたのである。

マルクスがヘーゲルの思想のなかから労働の弁証法を取り上げて、それを人間の本質と結びつけて論じたとすれば、ハーバーマスは相互行為を重視して、そこから彼独自のコミュニケーション論を展開した、そう言ってよいのではないか。労働からの疎外の克服がマルクスにとって戦略的な意味を持ったとすれば、ハーバーマスにとっては、コミュニケーションの回復こそが、人間性の回復につながる、と考えたわけであろう。

労働と相互行為という概念セットに似たものを展開した思想家としてアーレントがあげられる。アーレントの場合には、労働と相互行為の対立に相当するものは、簡単にいえば、労働と活動の対立である。活動は、これもまた単純化して言えば、市民同士の自由な討論に根ざした公的な対話ということになろう。この対立の中で、労働は人間の本性からの疎外をもたらすのに対して、活動=対話こそが人間の人間らしさをとりもどす、とアーレントは考えた。彼女がそう考えたわけは、労働がキリスト教倫理と深く結びつき、その論理がほかならぬユダヤ人迫害の最大の原動力になったと捉えたからだ。これに対して、自由な討論に根ざした公的な議論こそが、あらゆる現実的な利害から解放された純粋に公的な判断を保証するのだ、とアーレントは考えたわけで、その更に深い動機としては、ユダヤ人としてのアーレントのこだわりがあったのだと思われる。彼女はユダヤ人迫害につながるようなあらゆる思想的な伝統の影にキリスト教道徳を見たからこそ、キリスト教道徳の中核をなす労働倫理に対して、自由な討論を中心とした新しい道徳観を対比させたかったのだと思われる。

ハーバーマスもコミュニケーションを重視する点では、自由な討論を重視するアーレントと似たところがある。だがユダヤ人ではないハーバーマスにとっては、ユダヤ人迫害の思想的な根拠としてキリスト教倫理をあげ、それを労働と結びつけるというようなことはしない。彼は同じくドイツ人の先輩であるヘーゲルに従って、労働と相互行為をそれぞれ人間の解放にとって重要なモニュメントとして捉えているのである。相互行為としてのコミュニケーションに重点を置いていることは否めないようだが。





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