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本来性という隠語:アドルノのハイデガー批判


アドルノの著書「本来性という隠語」は、戦後ドイツの思想状況を批判したものである。アドルノはこの著書を当初、「批判弁証法」の一部として構想したが、扱っているテーマが、本体からの独立性が高いと自覚して、両者の分業を図ったという。この著作でアドルノは、隠語が横行している戦後ドイツの欺瞞的な思想状況を批判するのだが、その欺瞞性はハイデガーのような狡猾な哲学者だけではなく、ヤスパースのような誠実な思想家をも蝕んでいる。隠語の持つ独特の力が、戦後ドイツの思想界をまるまる包み込んでいるからである、とする。

この著作の冒頭に近い部分で、アドルノは次のように言う。「ドイツで話されているのは、<本来性>という隠語である・・・ニーチェがもっと長生きであったなら、<本来性>という隠語に吐き気を催していたことであろう。というのも、<本来性>という隠語はドイツ的なルサンチマンの現象だからである」(笠原賢介訳)。

この「隠語が偏在的なものとなったのは、ようやく戦後―ナチスの言語が疎まれるようになってからであった」(同上)。つまり、ナチスの時代に公然と語られていたものが、戦後隠語という形で語られるようになった。そうアドルノは言って、戦後ドイツで語られているものは、隠語という外皮をまとっているものの、ナチス時代に語られていたことと変りはない、と批判するわけである。つまりドイツは、戦後も相変わらずナチス時代と同じことを語り続けている、あたかもナチスの存在などなかったかのように。その語られている内容とは何かといえば、人間の個性を否定して民族国家への一体化を求める全体主義的な要求だとアドルノは言うわけなのである。

ナチス時代と戦後のドイツの連続性をもっとも強く体現しているのはハイデガーだとアドルノは考える。ハイデガーが戦後に語っていることは、ナチス時代と全く変らない。そればかりかハイデガーは、1935年の講演「形而上学入門」を、何の臆面も無く戦後に出版している。この本については、アドルノは直接触れてはいないが、こういうハイデガーの態度は、自分のナチス時代における言動について全く反省していない証拠だと受け取ったに違いない。ハイデガーは、「存在と時間」の中で、個人としての人間の「現存在」に拘ると見せかけて、実は個人を全体へ解消するような議論をしていたが、戦後もそういう姿勢は変っていない。彼は根っからのナチス礼賛者だ。そうアドルノは確信して、ハイデガーに標的を定めて、戦後も相変わらぬ、ドイツの全体主義的な傾向を指弾するのである。

戦後のドイツにおいて、「隠語が語るのは、苦悩、災厄、死は受け入れなければならない、変えられない、ということである」(同上)とアドルノは指摘する。これは、ハイデガーが「存在と時間」の中で主張していたことと同じことを、多少言葉を言い換えて言っているに過ぎない。ハイデガーがあからさまな言葉で言っていたこと、個人を全体の中に解消させることを内実とする言葉を、戦後のドイツでは、仲間内、つまりドイツ人社会の成員同士だけに共有された隠語=ジャーゴンで表現するわけである。隠語というものはそもそも、特定の仲間内だけで流通する言葉なのである。ナチス時代には、世界に向かって公然と言えたことが戦後の世界では許されない。そこで仲間内だけで流通する言葉=隠語を使って、ナチス時代と全く変らぬ同じ内容のことを、仲間内で共有して盛り上がろうというのである。

それが「本来性という隠語」なのである。この場合の「本来性」とは、アドルノによれば、ドイツ人らしさという以外の何ものでもないということになる。「本来性」という言葉は、「ある事象が何であるかを言い表しはしない。そうではなく、概念のなかにすでに前提されている{<本来の>}ものなのか否か、どの程度にそうなのかを、語ろうとする」に過ぎない。つまり具体的な内容を持った言葉ではなく、あるものがそのあるもの自身であるという形式的な事態、自己同一性をあらわしているにすぎない。それ故、「拷問吏ですら、{第三帝国において}<本当の>拷問吏員だったというだけで、今をときめく<本来性>の名のもとに、あるとあらゆる<存在論的>名誉回復請求を行うことができる、というわけなのだろう」(同上)

<本来性>に対置される<非本来性>は、ハイデガーでは「空談」として現れるが、ハイデガーは「世人」による「空談」を告発することで、人間をその<本来性>に立ち戻らせようとする。その<本来性>とは、ドイツ人のドイツ人らしさを指して言うのであるから、そう言うことでハイデガーは「ドイツ人らしくふるまえ」と人々に命じているわけである。ドイツ人にとっての自己同一性、それがドイツ人にとっての<本来的な>あり方であるわけだが、その<本来性>とは、繰り返して言うが、ドイツ人らしさということなのである。ハイデガーにおいては、人間は人間である前にドイツ人でなければならぬということになる。

この著作の後半は、もっぱらハイデガーの哲学の主要概念の批判を徹底的に行うことに費やされるのであるが、そうした概念のうちでアドルノがもっとも重視するのは「死」である。ハイデガーが現存在を死とのかかわりにおいて捉え、現存在を死にいたる存在としたことはよく知られている。だからこそ、次のような逸話が何らかの意味を持つのである。ホルクハイマーがハイデガーに熱狂したある婦人から、「そうはおっしゃいますが、ハイデガーは少なくとも人間をようやく死の前に立たせてくれたのではないのでしょうか」と言ったときに、ホルクハイマーは、「そんなことならば、ルーデンドルフの方がはるかに上手にやってのけましたよ」と答えたというのだ。ルーデンドルフは第一次大戦中のドイツの将軍で、彼の号令を受けて大勢のドイツの若者が死んでいったのである。

ハイデガーの狡猾なところは、死を現存在にとっての本質的な規定としながら、事件としての死と<本来性>としての死を厳密に区別することで、事件としての死に対する人間の恐れを骨抜きにしてしまうことだ。これをアドルノは「死の抑圧的排除」と名づけるのだが、そうすることで、「死に直面せず、そこから逃亡してしまうのである」とハイデガーを批判する。その目的が、ドイツ人の若者から死への恐怖を取り除かせ、全体性としての国家のために命をかけて戦う気概を植えつけようとする。そのようにアドルノは批判するわけである。

これは、ハイデガーが人間の尊厳について鈍感なことの現われだ、とアドルノは見る。それ故アドルノは次のような言葉でこの著作をしめくくるのである。「カント的な<尊厳>が究極的に崩壊するのは、<本来性>という隠語においてである。すなわちそれは、自己省察ではなく、抑圧された動物性との差異にその概念を持つあの<人間性>の崩壊に他ならない」(同上)

以上のアドルノの議論は、読んでいて非常に疲れる。文節が異常に長いこともあるが、議論を直線的に進めていかず、寄り道が多いことにも原因がある。アドルノは、ある一つの概念を持ち出すと、それにかかわる様々な叙述を、括弧のかたちで補強したり、別の文章をさしはさんだりして、一義的にではなく多義的に展開しようとする。それ故読者は、一々立ち止まり、概念の意味を多様な形で捉えなおしながら、前へ進んでいくことを余儀なくさせられる。そこが文章を読む上で、精神上の大きな負担となるために、疲れるのだ。特別難しいとか、判りにくく書いてあるということではなく、読み方に特別の緊張を強いるように書いてある。そこが読者を疲れさせるのだが、それはアドルノが意図してやっていることなのだろう。





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