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不幸な女オーリャ ドストエフスキー「未成年」を読む |
ドストエフスキーは、小説の中で不幸な女を描くのが好きであった。「虐げられた人々」の中のネリーとか、「地下生活者の手記」の中のリーザは、かれがもっとも力を込めて描いた不幸な女である。「罪と罰」の中のソーニャもそうした女の一人である。「未成年」にも不幸な女が出てくる。オーリャである。彼女は不幸であるとともに気位の高い女であって、その気位の高さが彼女を死に駆り立てる。彼女は、世間からさんざん愚弄されたことで、生きることに絶望し自ら首を吊って死ぬのであるが、それはぎりぎりの自尊心のためだったのである。 オーリャは母親とともにモスクワからペテルブルグに出てきたのだった。母親は長い間後家生活を続け、女手ひとつで娘のオーリャを育て、それなりの教育も受けさせたのだったが、わずかな年金では暮らしが成り立たない。ところで、死んだ夫がある商人に4000ルーブリ貸したことがあった。母親はそれを返してもらおうと考えて、その商人がいるペテルブルグにやってきたのであった。 母子の不幸はそこから始まるのである。母親はさっそくその商人にかけあったが、のらりくらりと言い逃れる。いささかのやり取りの後、明日改めて来てほしいと言われ、オーリャが一人で出向いていく。すると商人は、たったの15ルーブリを手渡して、もし処女だったら40ルーブリ上積みしてやろうと暴言を吐く。オーリャはこの侮辱に怒りを覚えたが、とりあえずその15ルーブリを持ち帰り、その金で家庭教師の求職広告を新聞にだした。 その広告はヴェルシーロフの目にもとまり、かれに不似合いな行動をとらせるのであるが、その前に、もう一つ嫌なことが起きる。ある女が訪ねてきて、新聞広告を見たが、もし職を探しているのなら、自分のところに訪ねてきなさいと言う。その言葉をすっかり真に受けたオーリャは、知らされた住所を頼りにそこへと赴く。ところがそこにはいかがわしい女たちがいた。先ほどの女が言っていた職とは売春のことだったのである。オーリャはこの仕打ちにすっかり打ちのめされる。母親が言うには、「その時からあの娘の顔にけわしい表情がでて、それが死ぬまで消えなかった」のである。 ヴェルシーロフがオーリャを訪ねたのは、そんな折である。かれは、どういうわけか俄かに慈善心を起こし、新聞で求職しているオーリャに手を指しのべる気になったのである。かれはとりあえずオーリャにいささかの金を渡す。オーリャはそれを純粋な善意として受け取りはしたが、いままでのことがあるので、もしかしたらこれには裏があって、あの男は自分を侮辱するつもりなのではないかとも考える。 そんなオーリャに火をつける奴があらわれる。ステベリコフである。ステベリコフはヴェルシーロフに意趣を抱いていて、オーリャに彼の悪口を叩きこむのである。「ヴェルシーロフってやつは、よく新聞などに書き立てられる将軍連とまったく同類の人間です。彼らは軍服の胸にありったけの勲章を飾って、新聞広告を調べて家庭教師希望の娘たちをかたっぱしから訪ねて歩き、お好みの娘をあさってるってわけですよ。お好みにあわなけりゃ、ちょっと座って、すこしばかりお話をして、いろんなことをどっさりこと約束して、立ち去る~それで結構慰めになるのですよ」。 この言葉を聞いたオーリャは、「お母さん、恥知らずな男に仕返しをしてやりましょう」と言って、あらかじめ警察の住所係で調べていたヴェルシーロフの住所に出かけて行って、受け取った金を突き返すのである。その場面はすでに、小説のかなり前のところで描写されている。 オーリャはその直後に首を吊って死ぬのである。その報をアルカージーはワーシンから聞いたのだったが、「あのステベリコフがいなかったら、こんなことにはならなかったかもしれんな」と感想を漏らす。世の中にはステベリコフのような悪党がはびこっていて、そいつらが不幸な女をさらに不幸にして楽しんでいるというわけである。 ヴェルシーロフについては、とくにこれといった思惑があったわけではなく、とっさの思い付きでオーリャに助け舟を出したつもりでいたのだったが、意外な事態に展開したのを知って愕然とする。あの際にもっと丁寧に対応していれば、こんなことにはならなかったかもしれないと思って、多少は反省するのである。 だが、オーリャを死に至らしめたのは、特定の個人のせいというよりは、ロシア社会の、とりわけペテルブルグという都会の、冷たい体質だったといえなくもない。ロシアというところは、多少とも自尊心のある人間、とりわけ女性にとって生きづらいところの多い社会である。ロシアには無数の不幸な女がいるが、彼女らは、自分を無にするこつをわきまえていないと、生き残ることがむつかしい。多少とも自尊心をもっていると、生きることがむつかしいのである。ドストエフスキーの小説の中の不幸な女たちは、ソーニャを別にして、みな自尊心のために自分の不幸をさらに深刻に受け取らざるを得ないのだ。その結果、自尊心に押しつぶされて、自ら命を絶つことになるのである。 では、自分を無にするとはどういうことか。それは信仰にのめりこむことではないか。神に帰依することで、自分を無にするのである。 |
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