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カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキーの読み方


「カラマーゾフの兄弟」は、ドストエフスキー最後の小説である。これを雑誌「ロシア報知」に連載しはじめたのは1879年の時であり、その翌年に単行本として出版した。その時ドストエフスキーはまだ58歳だった。かれは1881年に59歳で死ぬのであるが、作家としては早すぎる死といってよい。かれはこの小説の続編を構想していたので、もうすこし長く生きていたら、その続編と相まって、世界文学史上もっとも雄大な小説となったかもしれない。

非常に複雑な構成であり、その複雑性に応じてさまざまなモチーフがはめ込まれている。だから、色々な読み方ができる。もっとも安易な読み方は、カラマーゾフ一家が体現するロシア人の家族像とか、その家族を構成する人物を通じてのロシア人の民族性を読み取るものであろう。また、当時ドストエフスキーがかなり気にしていた新しい時代の思想への彼なりの批判を読み取ることもできよう。この小説には、極端な性格の人物が複数出てくるので、そういう人物像を通じて、ドストエフスキーなりの人間観、とくに精神病質の人間についてのかれなりの深い理解を読み取ることもできよう。さらに、バフチンが試みたように、小説の新しい方法論の実践としてこれをとらえる見方もあろう。要するにこの小説は、色々な読み方を許容する実に開かれた作品なのである。

かなり複雑な構成であるが、メーンとなるストーリーはある。それは父親殺しをめぐるカラマーゾフ一家とロシア社会との対立である。カラマーゾフ一家の内部でも、父親フョードルと三人の子供たちとの緊張した関係がある。その緊張した関係が、父親殺しというおぞましい事態をひきおこす。父親を殺したのは、一家の下男であり、かつ父親の庶子だと匂わされているスメルジャコフであり、それに次男のイヴァンが深くかかわっているのであるが、じっさいにその父親殺しの罪で裁かれるのは、長男のドミートリー(通称ミーチャ)なのである。三男のアレクセイ(通称アリョーシャ)はドミートリーの無罪を強く信じているが、それを実証的に証明することはできない。そんなわけで、この小説は、ミーチャが無実の罪を着せられたまま終わる。小説の終わり方としては、じつに後味が悪いのである。ドストエフスキーは19世紀の作家であるから、20世紀の作家のような問題意識はもっていない。20世紀の作家には、カフカをはじめ、社会の不条理をそのままに描くという姿勢が顕著に見られるが、まだ強い宗教感情を持っていたドストエフスキーのようなタイプの作家が、世界の不条理さをそのままに暴きだすというのは、ちょっとした驚きである。

そうした驚きを読者に感じさせるのは、この小説の語り方にも原因がある。この小説は、「悪霊」と似たやりかたをとっていて、作中の人物たちと面識がある一人物が、作中人物たちが繰り広げる人間模様を実際に自分が見聞したこととして語るという方法をとっている。「悪霊」の場合には、そうした語り方がいつの間にか客観的な叙述に変わってしまい、どこまでが語り手の語りで、どこからが、まったくの第三者、それは神と言ってよいが、その神の語りになるのかわかりづらいところがある。「カラマーゾフ」についても同じ事情が指摘できる。基本的には、特定の個人である語り手が見聞したことを語るというやり方をとっているのであるが、しかしそうした語り手の立場からは伺いしれないはずのことまでがあたかも実際に見聞したことのように語られる。しかも、「悪霊」の語り手が、作中人物の友人という立場を持たされているのに対して、この小説の中の語り手は、その身分があきらかにされていない。だから、事実上は、まったくの第三者か、あるいは神の立場から地上の事態を眺めているといった語り方をしている。にもかかわらず、神の目からみた事態を客観的に語るというのではなく、あくまでも借り手の主観に映ったことを語っているという建前をとっている。その建前が、事態のもつ不条理性をそのままの形で描写せしめたのだと思う。完全に神と同じ視点から語ったならば、もうすこし合理性ということにこだわっただろう。合理性というのは、理性にとって納得できるという意味である。この小説は、そうした納得を読者に与えない。この小説の終わり方に満足できない読者は星の数ほどあろうかと思うが、この小説は、納得できない者を含めて、なにもかも読者に吞み込んでもらいたいという態度に徹しているのである。

父親殺しは家族内の対立から結果したものだが、その家族、すなわちカラマーゾフ一家と社会との対立は、ミーチャの冤罪という形をとる。ミーチャに罪をなすりつけたのは、ロシア社会そのものなのである。だから、カラマーゾフ一家は、ロシア社会との対立に敗れたということになる。なぜそんなことになったのか。この小説のクライマックスは、ミーチャによる父親殺しを裁く裁判の場面であるが、その裁判では、ミーチャの弁護士を買って出た男が、実に有能な弁論を駆使して、検察側の起訴内容な完膚なきまでに反駁する。法技術的には、けちのつけようのない弁論であって、常識からすれば、ミーチャは無罪になるはずなのである。ところがミーチャは、事実によってではなく、偏見によって裁かれねばならなかった。その偏見はしかし、ロシア社会の維持のためには欠かせないものであって、それをゆるがせにしてはロシア社会が成り立たない。その偏見とは、父親の権威の尊重とロシア的家族の維持への期待に由来する。父親殺しとは、そうしたロシア的な価値観へのもっとも許しがたい行為である。それがおきたからには下手人を罰せねばならぬ。もし適当な下手人が見つからねば、どこからか見つけてくればよい。ミーチャはおあつらえ向きの下手人であった。かれには父親殺しを裁くうえでの動機とか状況証拠があった。それがあれば十分である。そう判断したのは、陪審員たちである。ロシアも多くの西洋諸国同様陪審制をとっており、ミーチャの場合には、十人からなる陪審員で構成されていた。その構成は、当時のロシア社会の構成にほぼ対応していた。役人と農民である。かれらこそ、ロシアの伝統的な権威を体現した人物たちだった。そのかれらが、ミーチャを生贄に選んだというわけなのである。

小説の主人公が、ロシア社会全体を敵に回すという設定は、ドストエフスキーの小説では、これが初めての試みである。ラスコーリニコフのような、ロシア的な価値観を軽蔑する人間は登場していてが、それは大局的に見ればごく些細な個人的な犯行であって、ロシア社会全体としては、たいした痛痒ではない。ところがカラマーゾフの家で起きた父親殺しは、それを放置しておけばロシア社会の土台に裂け目ができるほどのインパクトを与える。絶対に下手人に罰をあたえ、ロシア的な秩序を守らねばならない。じっさいこの裁判には、首都ペテルブルグや大都市モスクワの市民をはじめ、ロシア全体の注目が集まっていた。そんな注目を浴びながら、中途半端な結果に終わらせるわけにはいかないのである。

そんなわけで、この小説は極めて大きな社会的視野を感じさせる作品である。


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