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アリョーシャと少年たち ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」


カラマーゾフの兄弟は三人からなる。長男のドミートリー(ミーチャ)、次男のイヴァン、三男のアレクセイ(アリョーシャ)である。この三人のうち、小説全体の主人公は長男のドミートリーだ。なにしろこの小説は、父親殺しをモチーフにしており、その下手人として裁かれるのがドミートリーだからである。だが語り手は、アリョーシャを真の主人公のように位置付けている。というのも、今日「カラマーゾフの兄弟」として知られている小説は、もっと壮大な小説の前半部として書かれたからで、後半部では、もっぱらアリューシャにまつわることが書かれることになっていた。それはドストエフスキーの早すぎる死によって書かれることはなかったが、もし書かれていれば、前後合わせた壮大な小説の主人公をアレクセイが務めることになるのは、疑い得ないことだろうからである。そんなわけで、前半たる「カラマーゾフの兄弟」においても、アリョーシャが実質的に主役に等しい役割を与えられているのである。

三兄弟の関係を整理すると次のようになる。ドミートリーはフョードルの最初の妻アデライーダの産んだ子である。アデライーダは若い燕と蓄電し、息子にいくばくかの金を残した。息子は父親に捨てられ、下男のグリゴーリー夫妻に育てられた。成長後は、町のなかで一人暮らしをしている。次男のイヴァンと三男のアレクセイは、フョードルの二番目の妻ソフィアの産んだ子である。ソフィアは「憑かれた女(クリクーシカ)」と呼ばれる通り、精神に失調があったものと思われる。その母親からアレクセイは一種異様な性格を受け継いだ。その性格は、かれの「宗教的畸人(ユロージヴィ)」といわれるような素質のもととなる。そのかれが、後続の小説の主人公になると予告されているということは、その後続部の主題がユロージヴィをテーマにしたものであることを予感させる。

アレクセイは中学校を中退して父親のいる町に移る。その後、地元の僧院に入り、ゾシマという長老に師事する。このゾシマが、ユロージヴィの一典型を体現しているのである。19世紀のロシア正教会では、長老制というものが取り入れられて、長老が宗教的な影響を発揮するようになっていた。長老とは、教会の正規の位階から外れた存在で、個人的な資質を通じて信者たちを惹きつけていた。教会としては、そうした長老が、教会の位階秩序を乱さず、かつ信者たちを集める力を発揮する限りにおいて、その存在に敬意を払っていた。この小説の中でも、ゾシマが寄寓する僧院は、院長はじめ大部分の僧がゾシマに敬意を表している。

アレクセイは、もともとユロージヴィ的な素質があったうえに、ゾシマの強い影響もあって、次第にユロージヴィとしての本格的な資質を身に着けていく。その素質はまだ顕著な形では見られないが、かれに接する人がみな彼に大きな魅力を感じるところに現れている。かれは、大人と子供の区別なく、接する人をほとんど例外なく魅了してしまうのである。だから、彼の意見を聞くために多くの人が近づいてくるし、二人の兄弟からも頼られる。子供にいささかの愛情を持たない父親のフョードルさえ、アリョーシャには一目置くのである。

アレクセイは、多くの人々を感化するのであるが、とりわけ子供達には、特別な影響を与える。この小説の中には、大勢の少年たちが出てきて、それらの少年たちが、アリョーシャを囲んで互いに励まし合い、また、人間として成長していく。ドストエフスキーは、これ以前には子供の成長をテーマに取り上げたことはなかった。それがこの小説で初めて、子供の成長を追いかけるという、いわば教養小説的な手法をとりいれた。ドストエフスキーがなぜ、そんなことに新たな興味を覚えたか。それ自身興味深いことである。

この小説に出てくる少年たちは、十四歳を上限とする十名ばかりの集団である。その少年たちとアリョーシャは、年令の差を飛び越えて、平等な立場で接する。それが少年たちにはうれしくもあり、また、アリョーシャへの信頼感を高めることにもつながる。かれらとアリョーシャとの出会いは、少年同士のいさかいにアリョーシャが居合わせたことである。イリューシャという少年と、数名の少年が石をぶつけあっている場にアリョーシャが通りがかり、争っている理由を尋ねようとしたことがきっかけだった。アリョーシャがイリューシャに近づくと、イリューシャはアリューシャの手に嚙みついてひどい怪我をさせる。だが、アリョーシャは怒ることはない。なぜそんなことをしたのか、その理由が知りたいだけである。

理由はすぐに分かった。イリューシャの父親が、ドミートリーからひどい侮辱を受けたことにかれは腹を立てていて、ドミートリーの弟であるアリューシャも許すことができなかったのである。イリューシャの父親スギネリョフは、落ちぶれた退職官吏で、その日の生活にも困るような貧困にあえいでいた。しかし自尊心は失わない。その自尊心を息子のイリューシャも持っていて、父親を辱めた悪人の弟を許すことができなかったのである。かれの自尊心は異常なほどにすさまじい。いくら貧しくとも、人間らしさは失わないのである。そこにアリョーシャも感動する。かれはイリューシャと和解し、できたら役に立ちたかったのである。

アリョーシャとイリューシャの和解はじきに実現する。その前に、イリューシャと石をぶつけあっていた少年たちがイリューシャと和解する。それにはコーリャという少年が大きな役割を果たす。コーリャは14歳の少年だが、じつに大人びていて、ものごとを客観的に見る目を持っていた。かれは、鉄道のレールの間に横たわって、列車が上を通り過ぎるのを我慢したという逸話があるが。それは彼の度胸の現れであるとともに、事態を冷静に受け止められる能力をも物語っているのでもある。

アレクセイは、コーリャから絶大な信頼を受けるようになり、イリューシャからも愛され、また子供たちすべてから慕われる。アレクセイは、大人さえも好きになってしまうくらいだから、ましてや子供たちには無条件に好かれてしまうのだ。それは、アレクセイの持っている人柄がそうさせるのだが、その人柄を単純化していうと、無私の献身ということだろう。ドストエフスキーはそういう人物像こそロシアに固有なものであり、それはユロージヴィとよばれるような宗教的畸人たちに特に強く見られる傾向だと考えていた。宗教的畸人は他の小説でも登場し、だいたいが肯定的に書かれているが、この「カラマーゾフの兄弟」においては、小説全体の最大のテーマとなったわけである。

結局イリューシャは死ぬ。死因は結核だったようだ。貧困がかれの健康をさいなんだのである。この小説のラストシーンは、イリューシャの埋葬の描写である。その場でアリョーシャが少年たちにかける言葉が、ドストエフスキーとしては珍しく感傷的である。





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