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イヴァンと大審問官 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読む


カラマーゾフ三兄弟のなかでイヴァンは、性格がいま一つはっきりしないという印象を与える。長男のドミートリーにも性格の破綻を感じさせるところはあるが、それなりに自分の目的にしたがって行動している。かれの目的は快楽を追求することであり、その快楽を与えてくれるものが一人の女(ドルーシェンカ)であるかぎり、ただひたすらその女の愛を求める。かれの行動は非常に常軌を逸しているが、それも女の愛を得るための行動と見れば不自然さはない。また、アリョーシャのほうは、宗教的な奇人(ユーロジヴィ)として人物設定されていることもあり、その行動は宗教上の理由に根拠づけられている。ところが、イヴァンには明確な性格設定がなされているとはいいがたい。かれは、一応高等教育を受けており、インテリゲンツィアということになっている。ドストエフスキーは、インテリには自由思想を抱かせるのが好きであるから、イヴァンにもそうした自由思想を抱かせている。しかし、イヴァンの行動を追っていくと、とてもインテリとしての合理的な行動をしているとは思えない。かれには一種独特の性格の弱さがあって、そのために一人前の男としては物足りなさを感じさせる。実際、ドミートリーの裁判をめぐって彼が示す反応は、じつに幼稚なところを感じさせるのである。

イヴァンは、母親が死ぬと弟のアリョーシャともども父親に捨てられ、当初はドミートリー同様グリゴーリーに面倒を見てもらったが、やがて母親の縁者であるさる将軍夫人にひきとられ、その夫人が死んだあとは、夫人の相続人ポレーノフに引き取られた。二人の子供たちには夫人が一人千ルーブリずつ残してやった。ポレーノフはその金に手をつけず、自分の資産で二人を育てた。ポレーノフが死んだのは、イヴァンが中学生のころで、その後かれは大学に進むことができた。まだ幼い弟のアリョーシャは二人の婦人に引き取られた。イヴァンが父親の住む町に戻ってきたのは大学卒豪後まもなくのことである。兄のドミートリーが、相談相手としてかれを呼んだのだった。かれは父親フョードルの家に同居し、この小説の始まる時点では、父親と兄との仲介役のようなことを行っているのである。仲介がうまくいかなかったことは、父親が殺され、ドミートリーにその嫌疑がかけられたことからわかる。

フョードルを殺害したのはスメルジャコフであるが、それにはイヴァンも一枚かんでいる。かれは自分の手を汚したわけではないが、スメルジャコフがフョードルに殺意を持っていることを察しており、かれの殺人をほう助したわけではないが、それを見逃すというかたちで父親殺害に一枚かんだのである。スメルジャコフがフョードルの殺害を決意したのは、とりあえずは金のためということになっているが、自分の父親だと噂されているフョードルを恨んでいたようなので、怨恨も絡んでいると思われる。そのスメルジャコフは、どういうわけか、事件後しばらくして自殺するのである。

イヴァンはなぜ、スメルジャコフによるフョードルの殺害に、間接的にではあるが、加担したのか。その理由がいま一つ明らかではない。この小説は、カラマーゾフ三兄弟を主人公に設定しながら、一人イヴァンについてだけは、曖昧に流している部分が多い。かれとスメルジャコフのやり取りを読んでいると、スメルジャコフの怪しい雰囲気にのまれ、あたかも催眠をかけられているような印象を受ける。かれが父親殺しを見逃したのは、催眠にかかっていたためではないかと思わせられるほどである。かれは、イヴァンを裁く法廷にもあらわれ、真犯人はスメルジャコフであり、ドミートリーは無実だと証言するのだが、裁判所はそれにとりあわない。すでに犯人はドミートリーだと決めているからである。またイヴァン自身も、譫妄状態にあって、その証言には真実らしさがなかったこともある。小説はイヴァンがドミートリーの脱獄ほう助の計画をもっていたとほのめかすのだが、イヴァンがその計画を実施する可能性はほとんどないだろうと読者に感じさせながら終わるのである。

イヴァンの性格を裏打ちする思想をかれに表出させる場面がある。第五編第五「大審問官」に出てくる場面である。この場面に先立って、かれは弟のアリョーシャを相手にキリスト教の批判を行っている。アリョーシャが宗教的奇人の道を選び、キリスト教に一身をささげようとしていることに、水を浴びせることを意図したキリスト教批判である。そこでかれは、自分はキリストではなく、悪魔のほうに親近感を抱くといって、アリョーシャを悲しませる。そのうえで、大審問官の話をするのである。これは彼が作った劇詩の題名で、16世紀のロシアを舞台にして、キリスト教会の大審問官が、キリストが人々の魂の救済のために再びこの世に救世主として現れたことに対して、キリストを厳しく批判し、いまは教会が人々の魂を救済する役目を担い、キリストにはもはや出る幕はないので、とっとと消え失せてもらいたいと宣言するというような話である。

その話を聞いたアリョーシャは強く反発する。アリョーシャにとっては、キリストの復活はありうることなのである。キリストはいつの時代にも、どの国でも復活する、と強く信じている。キリストは万能なのだから、自分の意思でどんなこともできるのだ。そのキリストの復活を信ぜず、教会がキリストにとってかわると主張するのはジェスイットだけだ。なるほどジェスイットならば、そんなことをいうかもしれぬ。しかしロシアの正教では、教会をキリストの上位に置くようなまねはしない。そういってアリョーシャは反論するが、イヴァンはとりあわない。かといって自分の反キリスト論をアリョーシャに押し付けるわけでもない。ただ、自分はお前のようには思わないというばかりである。そういう中途半端なところがイヴァンにはある。かれはキリストをそんなに信じないが、かといって無神論者を自認しているわけでもないのだ。そういうところに、イヴァンの人間としての頼りなさを読者は感じ取らされるような書き方をドストエフスキーはしているのである。

ドストエフスキーは、この小説を含め、多くの小説で、自由思想は無神論に他ならないと書いているが、ことイヴァンについては、自由思想と信仰の自由はどうも両立しているようである。




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