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カチェリーナとグルーシャ ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読む


ドストエフスキーの小説世界には、強烈なキャラクターの女性が必ず出てくる。彼女らは、男の主人公以上に強い存在感を発揮している場合が多い。「白痴」では、ナスターシャとアグラーヤがムイシュキン公爵を手玉にとるし、「悪霊」では、ワルワーラ夫人が物語全体の中心にいる。「罪と罰」のソーニャやそのタイプの女性たちも、一見ひ弱そうに感じさせるが、芯の強さを持っている。ドストエフスキーがこうした女性たちにこだわったのは、かれなりのロシア人観に根差しているのだと思う。ロシア人というのは、男がだらしないだけに、そのだらしない部分を女が補っている。女が毅然としていなければ、ロシア社会はまともには機能しない。そういう考えが働いて、女性に大きな比重を持たせているのが、ドストエフスキーの小説の特徴だと思う。

「カラマーゾフの兄弟」では、カチェリーナとグルーシャが強烈な存在感を発揮して、小説全体を躍動させている。二人ともドミートリーと特別な関係にある。カチェリーナは、ドミートリーに苦境を救ってもらったことで、彼に対して恩義を感じ、その恩義が恋愛感情に発展したという経緯があるが、その恋愛感情は次第に衰えていく。それに反比例するように、グルーシャのドミートリーへの恋愛感情が高まっていく。この二人の女性の非対称的な関係が、小説全体を彩っているのである。なにしろこの小説の主人公は、三兄弟の長男ドミートリーであるから、かれと特別な関係にあるこれら二人の女性の存在感は圧倒的に大きい。その二人が、ともに強烈なキャラクターの持ち主であり、男の主人公であるドミートリー以上に、強い存在感をもって読者に迫ってくるのである。

カチェリーナがドミートリーに苦境を救ってもらったというのは、一家を破滅から救ってもらったということだ。父親が多額の借金をかかえて破滅しそうになったときに、ドミートリーが5000ルーブリという金を提供してくれた。ドミートリーは、彼女が自分の部屋にやってきたら金を渡してやろうという条件をつけたのだが、それは性的な意味合いとして受け取られかねない条件だった。その条件をのんで彼女はドミートリーの部屋を訪れたのだったが、ドミートリーは性的な要求をもちださず、あっさりと金を渡した。そのことが彼女には、ドミートリーの人柄の高潔さを物語るように思え、それが彼への尊敬の念と、それを超えた恋愛感情の高まりをもたらしたのだ。彼女はその後、運よくそこそこの財産を手にしたが、財産を手にしたあとも、ドミートリーへの恋愛感情(疑似恋愛感情といってもよい)を持続させたのだった。

グルーシャは、グルーシェンカとも呼ばれるが、正式の名はアグラフェーナである。孤児だったところを商人のサムソノフに育てられたということになっている。一時は性的な関係も迫られたらしいが、サムソノフは高齢でもあり、この小説が始まった時点では、サムソノフとの性的関係はなく、フョードルとドミートリーの父子に執着されている。彼女のほうは、父子の愛をもてあそぶような態度をとる。じっさい、彼女は二人とも全く愛してはいないのだ。彼女には、少女時代に愛した男がいて、その男から会いたいと言ってくると、いそいそと逢いに出かけていくのである。だがその思い人がいかさまな男だとわかって、自分に対して熱烈な愛をささげるドミートリーのほうに心が傾いていくのである。彼女は、ドミートリーと結婚して、かれがシベリア送りになったら、自分もついていく気になる。彼女がそう思うようになった時点で、カチェリーナのほうはドミートリーに愛想をつかすのだ。

カチェリーナとグルーシェンカの関係は、ドミートリーをめぐる三角関係の二つの辺という関係である。その関係の中で、カチェリーナの嫉妬が大きな意義を帯びる。ふたりは、小説の比較的早い時点で衝突する。アレクセイがカチェリーナの家を訪ねて行ったときに、すでにグルーシェンカが来ていて、アレクセイの前で二人は罵りあうのである。その罵り合いは、アレクセイに強い印象を与えた。二人とも大柄な女で、男勝りの勢いがある。だから、罵り合いは迫力を感じさせるのである。罵り合いを始めたのはカチェリーナのほうだった。彼女は、グルーシャがドミートリーをもてあそんでいるようなことを、カチェリーナに向かって当てこすりのように言うので、かっとなって、グルーシャを「売女」呼ばわりするのである。それに対してグルーシャも、カチェリーナが金のために男の部屋に入っていったことをとりあげて、嘲笑する。こうなっては修復しがたい全面対決である。その対決は、ドミートリーとの関係においては、カチェリーナが愛の対象をイヴァンに切り替え、グルーシャがドミートリーと結ばれることを望むという形で決着する。

カチェリーナは、尊大で傲慢な女として描かれている。そのうえ長身ときているから、アマゾネスを思わせるような偉丈夫なイメージを感じさせる。グルーシャも長身のほうだが、カチェリーナよりは多少低い。その差が、彼女らの気持ちの差をあらわす。カチェリーナは一貫して尊大さと傲慢さを失わず、イヴァンに対しても保護者のような態度をとるのに対して、グルーシャのほうは、かつての思い人への思慕とか、ドミートリーからの求愛にこたえようとする姿に、ある種の謙虚さを感じさせる。ドストエフスキーは、この二人の女性のうち、グルーシャのほうを贔屓しているようである。グルーシャには、「貧しき人々」のワルワーラ以来、ドストエフスキーが描きつづけてきた、ロシア女性の一つのタイプとしての弱さの中に強さを感じさせるような女性像が認められるのである。

もっとも、カチェリーナも傲慢だけではなく、やさしさも感じさせる。たとえば、スギネリョフ一家に経済的な援助の手を差し伸べたりする。彼女が傲慢に振舞うときは、自尊心を傷つけられたと感じたときだ。そう感じるのは、嫉妬が強く働く時である。彼女は嫉妬に振舞わされながら生きているという印象を強く与える。こんなに嫉妬深い女性像は、ドストエフスキーの小説世界のなかでは、ほかに見られないのではないか。「白痴」の中のナスターシャとアグラーヤはムイシュキン公爵を挟んで三角関係を形成するが、そこには強烈な嫉妬は介在しない。ふたりともムイシュキンを本気で愛してはいないからだ。ところがカチェリーナは本気でドミートリーを愛しているらしいのである。というか、彼女はだれかを愛さずには生きていられないタイプなのである。




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