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デフレの正体:藻谷浩介氏の日本経済論


藻谷浩介氏の著作「デフレの正体」を読んだ。氏は安倍政権の理論的支柱となっているいわゆるリフレ派の経済学者から目の仇にされていることで知られているが、何故彼がリフレ派に憎まれるのか、この本を読むと、その理由がよくわかる。彼は現在の日本経済が陥っている状態を、鳥瞰的な視野からあざやかに描きだしており、それがリフレ派の近視眼的な人々には到底理解できないのだ。彼らは自分の理解不能を棚に上げて、藻谷氏の理論を許すべからざる挑戦だと受け止めているようなのである。

リフレ派の連中は、今の日本経済の問題をデフレに求め、デフレを解消すれば、日本経済はおのずからよくなると主張している。ところが氏は、日本経済の問題点はデフレなのではなく、もっと構造的なものである。それを一言で言えば、人口の減少が本格化したことによって、内需の規模の縮小が経済の頭打ち現象をもたらしているということだ。デフレとはあくまでも金融面での現象だが、今の日本経済が陥っている状況はそんな簡単なものではなく、根の深いものだ。それ故小手先の金融政策によって解決が図られるようなものではない。人口減少という事態に即した適切な対策が取られないと、この先日本経済が再び上向くことはないであろう。こんな主張をするものだから、経済対策の専門家を自負するリフレ派の連中は、ふざけたことをいうなといって、怒り狂うわけなのだろう。

需要の規模を重視しながら日本の長期的なデフレを説明した人として、小野善康氏があげられる。小野氏は日本の経済が成熟期に入ったという認識に立って、もはやこれまでのように旺盛な需要が生じることはなくなったという風に現状を抑える。そうした状態にあっては、人々のモノに対する欲望が小さくなり、モノにかわってお金への欲望が拡大する。お金への欲望の拡大は当然、モノに対するお金の価値を高める方向へと働く。このお金の価値がとどめなく高まっていく現象を、金融的なタームでデフレという。このように小野氏は説明していたわけだ。

この説明によれば、なんらかのはずみでモノへの欲望が回復し、需要の規模が再び拡大するようになればデフレも解消されるはずだ、という見方も成り立つ。それは簡単なことではないが、しかし不可能なことでもない。だから、人々の新たな需要を掘り起こすような技術革新がまだまだ意味を持つし、短期的には政府の資源再分配機能を通じて、まだ眠っている需要を掘り起こすような政策にもそれなりの意味があるということになる。

こうした小野氏の説明と比較しても、藻谷氏の理論はドラスティックだ。人口減少という巨大なトレンドは、まなはんかな経済対策では対処できないようなインパクトを実体経済に及ぼす。しかも、このトレンドを押しとどめることはなかなか困難だ。それ故、このトレンドを踏まえた上で、少しでも有効な対策を打っていくしか方法はない。例えば、高齢富裕層から若者への所得移転とか、女性の就労と経営参加とか、外国人による消費の拡大とか、といった政策である、と氏はいう。

リフレ派を始め、これまでの主な経済学説は、発展途上社会を前提にした理論モデルを作り上げてきた。そうした社会では、モノへの需要は尽きることがなく、したがって作ったものはすべて売れるというセーの法則も成り立つ。当然人口が減少して、それが実体経済に深刻な影響を及ぼすといった事態は考慮されていない。そんな経済学説は、今のアメリカならまだ当てはまるかもしれないが、日本には当てはまらなくなっている。全然違った前提で成り立っている経済学を、日本の経済に適用しようとしても、ろくなことにはならない。リフレ派を始め、日本の経済を相手にしているエコノミストたちは、日本経済のファクトをもっときちんと押さえたうえで、経済対策を云々する姿勢が大事だ。今の日本のエコノミストたちは、ファクトつまり事実に向き合うことを避けて、アメリカ人の書いた教科書を鵜呑みにしているばかりだ。そんな姿勢では、経済を論じる資格はない。

こんなことをいうわけだから、氏がお偉い先生たちから目の仇にされるのも、無理ないかもしれない。




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