知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




クルーグマンの不況の経済学


ポール・クルーグマンは、デフレ不況の克服についてかねてより政策提言を勢力的に行ってきた。その柱は、大胆な金融緩和、政府による積極的な財政出動そして適度なインフレと言うことであった。そしてこの三つの柱の中でも、金融政策に大きなウェートを置いてきた。日本のような巨大な債務を既に抱えてしまっている国では財政出動にもおのずから限界があるのに対し、金融緩和なら財政赤字を気にしないでできるし、またインフレを引き起こす手段としても使える、そんな判断が働いたためだろう。

ところが近年になって、金融緩和よりも財政出動のほうを強調するようになった(クルーグマン「さっさと不況を終わらせろ」山形浩生訳)。それは、金融緩和が思ったほど効果を上げない、ということがわかったからだと思う。一方では金利をゼロにまで引き下げ、他方では大量のドルを刷るなどして、市場にジャブジャブにマネーを行き渡らせても、景気は一向に上向かない。市場に行き渡った金が、投資されることなく、金庫に眠ったままになってしまっているからだ。そこでクルーグマンは、なぜそうなるのか考えたところ、これはケインズの言うところの「流動性の罠」のためだと思うようになった。流動性の罠が働いているところでは、企業も家計も貯蓄(負債の圧縮も含む)することに夢中になり、金を有意義なビジネスや消費に回すことをしないからだ。

ではなぜ、流動性の罠がはたらくようになったか。それについては、クルーグマンは正面から論じていない。だが、バブルがはじけた後、企業も家計も負債の圧縮に夢中になったと言っているので、バブル崩壊の後遺症というふうに考えてはいるようである。その点では、バランスシート不況論を展開しているリチャード・クーと同じ認識だと思うが、クーの方はそれを意識的に取り上げているのに対して、クルーグマンのほうはそっと匂わせる程度にとどめている。いずれにしても、企業や家計が手元に増えた金を投資や消費に回さずに、負債の圧縮に回すという現象が支配的な条件下では、金融緩和は景気の上昇にはつながらない、と考えているわけであろう。

金融緩和とインフレとの関係についても、クルーグマンの考えは慎重になったようである。以前は、金融緩和がかなりストレートにインフレにつながるというふうに考えていたフシがある。彼のインフレ・ターゲット論は、そうした楽観的な考えが産ませたものなのだろう。しかし、アメリカや日本では金融緩和がインフレをストレートにもたらすことはなかった。それはやはり流動性の罠が働いているからだ。流動性の罠が働いているところでは、市場にいくら金を増やしても、それが景気の上昇をもたらすことはない。景気がよくならなければ労働者の賃金も消費者物価も上がらない。つまりインフレ傾向にはならない。インフレというものは景気の過熱の結果起こるものなので、景気が悪いまま物価だけが上がるということは、普通はないのである。

こうしてみると、日米始め今の世界が不況にあえいでいる根本的な要因は流動性の罠にあるということになる。企業も家計も投資や消費を控えてまでお金を貯めることに執着している。そこが不景気の根本的な原因なのだというわけである。しかし企業や家計がこのような行動をとっているのは、どのような理由からなのか。バランスシートの改善と言うだけでは説明ができないのではないか。なぜなら、バランスシートは遅かれ早かれ改善されるだろうし、事実、日本の場合で言えば、多くの企業はバランスシートを改善することを越して、多額の内部留保を貯めこむという事態にまで進んで来ている。

人々がモノよりお金に執着するようになったのは、買いたいものがなくなったからだ、といった学者がいる。日本の小野善康氏だ。小野氏は、経済が成熟して人々の欲望が満足され、とりあえず欲しいと思うものがなくなると、流動性の罠が生じると考えている。そうした事態と言うのは、定期的に生じる。何故なら人間の欲望というものには自ずから限度というものがあるからだ。限度いっぱいになると、消費の意欲は衰え、流動性への選好が高まる。それが打破されて、新たな消費意欲の爆発が起こるのは、技術革新によって人々の新しい消費意欲を刺激する商品が現れることによってだ。だから、デフレ不況に苦しんでいる日本経済のような場合には、なによりもイノベーションが求められる、というわけである。

イノベーションといえば、シュンペーターが思い出されるが、クルーグマンはシュンペーターが大嫌いなようだ。シュンペーターは景気には長期的な波があって、それは自然現象のようなものだから、浪の入れ替わりにあたって、人為的な介入をする必要はない。古い波は崩れるがままに任せ、新しい波が生まれて来るのをただ待つだけでよい、という意味のことを言った。それをクルーグマンは「清算主義」的考え方だと言って、厳しく批判するのである。クルーグマンによれば、どんな波もコントロール可能なのであり、また、人々の痛みを和らげるためにコントロールすべきだというわけである。




HOME経済を読む次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2014
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである