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斎藤幸平「人新世の『資本論』」


「人新世」とは、地球の地質時代区分についての用語で、今の人類が生きる地球が全く新しい地質時代に入ったことを強調するものだ。この時代の特徴は、人類の活動が地球の命運を左右するということだ。命運というのも大げさな表現ではない。環境破壊に代表される人間の経済活動のマイナス面が地球を破壊しつつあり、このまま放置すると、遠からぬ未来に地球は人間の住めるところではなくなる。その地球の破壊を推し進めている元凶は資本主義である。資本主義は人間と自然の搾取の上に成り立っているが、その自然の搾取の行き着く先に地球の破壊が待っている。だから地球を救うためには、資本主義というシステムを否定して、あらたな社会システムを作る必要がある。その社会システムとは、資本主義の本質である経済成長主義を否定して、脱成長を前提とした恒常的なシステムになるべきだ。そういうシステムを斎藤幸平は脱成長コミュニズムと呼んでいる。そしてその考えの基礎をマルクスに求めている。「人新世の『資本論』」(集英社新書)と題するこの本は、マルクス主義の再生に地球の存続可能性を託したものなのである。

マルクスが、資本主義には始まりがあり、また終わりがあると言ったことはよく知られている。しかしマルクスは、資本主義の終わりがやってくる前に地球そのものの終わりが来るとは考えなかった。マルクスは、資本主義による自然の略奪を非難していたが、その略奪が地球を破壊するとまでは考えなかったのである。資本主義はそれに内在する矛盾によって自己崩壊を起し、その後には理想的な共産主義社会が実現されて、人々は緑なす地球を舞台に幸福に生きることができるに違いないと考えた。その考えは、斎藤によれば甘い見通しに立っている。資本主義が今後も続けば、環境破壊は加速度的に進み、地球は遠からずして人の住めるところではなくなる。だからいますぐ資本主義を終わらせねばならない。事態は緊迫している、というのが斎藤の主張だ。

斎藤によれば、資本主義による環境破壊と地球の持続可能性が脅かされる危険が飛躍的に高まったのは、ソ連をはじめとした社会主義体制が崩壊し、資本主義が地球全体を制覇して以降のことだという。その事態をグローバリゼーションというが、そのグローバリゼーションが地球全体を資本が搾取するシステムを完成させた。いまや資本主義は唯一の社会・経済モデルとして地球を支配している。その支配が地球に回復不可能な打撃を与えている。それは資本に内在する成長主義の帰結だ。成長を追求する資本のあくなき欲望が、地球資源を食いつぶし、自然環境を破壊する。気候変動はその象徴的なあらわれだ。いまのままに資本主義の成長路線が勝利していくと、今世紀中には地球は人間の住める場所ではなくなる。そんな危機意識が斎藤を駆り立て、資本主義の打倒とそれにかわるシステムの樹立を主張させているというわけである。

こんなふうになったしまったのは、グローバリゼーションによって、資本のもたらす負の効果を外部化できる余地がなくなってしまったからだ。これまで資本は、それのもたらすマイナスの効果を外部に押し付けることで、その費用を負担せずにいることができた。資本は、インフラはじめ社会の恩恵を自分のものとして内部化する一方、環境汚染はじめそのマイナスの効果は外部に転嫁してきたのである。ところがグローバリゼーションによって、外部化を受け入れる外部そのものは消滅した。資本の生み出すマイナス効果は、資本を含めた地球全体で吸収するほかはない。つまり、資本の矛盾が資本の外部に転化されずに、資本を含めた地球社会すべてのメンバーによって受け止められざるをえない事態が生じたのである。

事態をこう抑えれば、論理必然的に、資本主義を終わらせ、それにかわるシステムを確立しなければ、地球は滅びるという議論になる。斎藤が、資本主義にかわる新しい社会・経済モデルとして示すのは脱成長コミュニズムである。そのアイデアを斎藤は、晩年のマルクスの思想から得たと言っている。従来の主流のマルクス解釈は、斎藤によれば、経済成長主義に立ったものだった。生産力の発展が進むと、生産様式との間で様々な矛盾を生じさせる。その矛盾が資本主義への抵抗を強め、ついにはその終焉をもたらすという考えだった。こうした考えは、たしかに「資本論」を読む限り無理のないものだが、しかしそうした考えに立っていたのでは、資本主義はそう簡単には乗り終えられないばかりか、資本主義が地球を破壊することを防止することはできない。マルクスは、資本主義が終わりになる前に地球の終わりがくるとは夢にも考えなかったが、そうした事態はかなり現実味を帯びているのである。

だからマルクスを、資本主義超克の理論家として再生させるためには、資本論におけるような成長主義の唱道者としてのマルクスでは意味がない。地球の破壊を進めているのは資本主義の成長主義なのだから、地球を破壊から救うためには無制限な成長主義を否定しなければならない。いまや地球を破壊から救うためには、過度の成長路線を否定して、脱成長路線に転化せねばならないのだ。したがってマルクスを資本主義超克の理論家として見直すためには、マルクスを脱成長論者として見直す作業が必要になる。

斎藤のマルクス復権の試みは、マルクスを脱成長論者と見直すことで成り立っている。資本論までのマルクスは、どう読んでみても、生産力中心主義的なことろがあり、資本主義の成長主義と決定的に対立するものではなかった。両者とも成長主義を前提にしたうえで、資本がそれによって地球資源の略奪を進めるのに対して、マルクスは、生産力の発展が資本主義という生産様式との矛盾を進化させることに、革命の根拠を求めたのであるが、どちらの成長主義も地球の破壊をやめさせることはできない。成長主義に立つかぎり、マルクスも地球を救うことはできないのである。いくらマルクスが資本主義の打倒を叫んでも、その前に地球が破壊されてしまえば元も子もないというのが、斎藤の基本的な考えなのである。

そこで斎藤は、マルクスを脱成長論者として見直す。その根拠として斎藤が持ち出すのはマルクス晩年の思想である。「ザハーリチへの返書」に代表されるマルクス晩年の思想は、成長主義を脱して脱成長主義に傾く一方、社会主義・共産主義を高度な資本主義のもたらす結末とばかり捉えるのではなく、伝統的な共同体がそのまま移行できるようなものと考えるにいたった。たとえばロシアのような国では、中世的な共同体が残っているが、その共同体の長所を生かす形で理想的な共産主義社会の形成が可能だと考えた。従来の主流派のマルクス主義は、社会主義・共産主義革命は高度に発達した資本主語国家だけで起ると考えていたのだったが、晩年のマルクスはロシアのような伝統的な共同体社会でも起りうると考えるようになったというのである。

このようにマルクスを読み直せば、マルクスは新しい共産主義のイデオローグとして見直されるし、その共産主義は脱成長と結びついて、地球を破壊から救う決め手をもたらしてくれる。地球を破壊から救うというのは、人類全体の未来を切り開いてくれるということである。マルクスは斎藤によって人類の救済者としての名誉ある地位を与えられたということになろう。

斎藤によるマルクス復権は、今後の地球社会の持続可能性を考えるうえで大きな手がかりを与えてくれると思う。マルクスは新自由主義者をはじめとする資本主義の擁護者たちによって目の敵にされ、すっかり葬られたと安心する輩が多い中で、あえてマルクスの意義を今日によみがえらせた斎藤の意気込みは貴重とすべきだろう。若い世代に斎藤のような人が現れたことに、小生のようなオールドマルクシストは心強いものを感じるのである。



脱成長コミュニズムの担い手:斎藤幸平「人新世の資本論」
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