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気候ケインズ主義批判:斎藤幸平「人新生の資本論」


斎藤幸平は、資本主義を前提として気候変動を制御しようとする議論を否定する。資本主義は無制限の経済成長を要求する。その経済成長が資源の収奪とそれにともなう環境汚染を加速する。成長にはエネルギーが欠かせないが、そのエネルギーの増加のための活動が、地球温暖化物質の排出を加速させるからである。したがって、地球温暖化の進行をとめ、気候変動を制御するためには、成長を減速させるかあるいか成長そのものをやめるしかない。それを斎藤は脱成長と呼ぶ。脱成長を前提とした経済システムはコミュニズムしかないから、そうしたシステムは脱成長コミュニズムの形をとらざるを得ないというのが斎藤の主張である。

資本主義を前提にしながら気候変動問題を解決しようとする議論にはさまざまなものがある。斎藤はそれらを取り上げながら、一々批判を加えていく。

まず、グリーン・ニューディールと呼ばれる政策パッケージ。これはトーマス・フリードマンのような保守的な論客からバーニー・サンダースのような左派までが主唱しているもので、簡単に言うと、環境負荷の少ない技術に大規模な投資を行うというものだ。たとえば、再生可能なエネルギーや電気自動車を普及させるために、大型財政支出や公共投資を行う。そうすることで、環境への負荷を劇的に減らすことができるし、関連事業の拡大によって新たな雇用も生まれる。こうした考えは、かつてのニューディール政策を想起させることから、斎藤はそれを気候ケインズ主義と呼んでいる。経済成長と環境対策という二つの要請に同時に応えることができる、都合のいい政策というわけである。

だがこの政策は、経済成長を否定しているわけではないので、経済成長によってに炭酸ガスの絶対量の増加傾向を止めることはできない。炭酸ガスの相対的な排出量は減らすことはできるかもしれぬが、絶対的な排出量の増加を食い止めることはできないのである。そこで、経済成長がかならずしも環境破壊と連動しないような政策が求められる。経済成長と環境負荷のデカップリングと呼ばれるものはその一つの有力な選択肢だ。デカップリングとは、経済成長にともなう環境負荷を、新たな技術を適用することで軽減ないし廃絶しようとするものだ。これがうまくいけば、経済成長を続けながら環境負荷を減らすことができる。資本主義は永遠に持続可能になる。そうこの政策の擁護者は言うのだが、果たしてそんなにうまくいくのか。

斎藤は否定的である。たしかに環境負荷を軽減する技術を採用することで、炭酸ガスの排出量の増加に一定のブレーキがかかるのは間違いない。しかしそれで絶体量が減るわけではない。というのは経済成長を続ける限り、環境負荷物質は増加し続けるからだ。そうしや傾向を斎藤は、「経済成長の罠」とか「生産性の罠」とか呼んでいる。経済成長はそれに相応するエネルギーの消費を伴い、したがって環境負荷物質の増加をもたらす。また、生産性をあげるためには経済規模を拡大させる必要がある。経済規模の拡大は、必然的に環境負荷物質の増大をもたらす、というのが斎藤の推論である。

中には、環境負荷の増大を伴わない経済成長がありうるという議論もある。技術が高度に発展することによって、これまで考えられなかった事態を実現することができる。たとえば、大気中の炭酸ガスを地球の大気圏外に放出する技術とか、あるいは他の物質と合成することで無力化する技術とか、そういうものを採用することで、経済成長を続けながら持続可能な地球環境を維持することができる。こういう考えを斎藤は「エコ近代主義」と言う。エコ近代主義とは、原子力発電やネガティブ・エミッション・テクノロジーを駆使して、地球を管理運営しようとする思想である。斎藤はそれにも対しても否定的だ。それは、問題を先送りするだけのことだ。その問題は、遠い未来のことではなく、いま現在差し迫っている問題なのだ。なにしろ炭酸ガスの排出を激的に減らさなければ、21世紀の半ば頃には、地球は人間の住める環境ではなくなる。そうならせないためには、いますぐ環境負荷物質の排出を止めなければならない。一刻も先送りはできないのだ。

地球の環境を毀損しているのは旺盛な経済活動であるが、その恩恵を最大限享受しているのは世界の富裕層である。斎藤は、世界の富裕層トップ10パーセントが炭酸ガスの半分を排出する一方、下から50パーセントの人たちは10パーセントしか排出していないという。ということは、富裕層が経済成長の成果を独占的に享受し、貧困層がそのマイナスの影響をもっとも強く受けるということである。なぜなら、経済成長のもたらすマイナス効果は、斎藤が言うグローバル・サウス、すなわち貧困地帯に外部化されるからだ。

そんなわけだから、地球環境を持続可能なものとするには、経済成長そのものをやめねばならない、というのが斎藤の基本的な考えである。脱成長以外に地球を救う道はないというわけである。脱成長で一番影響を受けるのは富裕層だが、その富裕層を享楽させるために、地球全体が犠牲になることはない。資本主義を擁護する立場は、功利主義の考えに基いているが、功利主義とは実は、強者を喜ばすための議論である。その議論が先鋭化すると新自由主義に行き着く。いまや世界は新自由主義が謳歌している。その新自由主義が地球の破壊を加速しているのである。だから地球を守るための戦いは、当面は新自由主義との戦いという形をとるが、実はそんなケチなものではない。地球を破壊している元凶は資本主義そのものであるのだから、その資本主義との全面的闘いこそが、地球を破滅から救う道である。そう斎藤は考えて、脱成長コミュニズムの可能性にかけるというわけであろう。

そういう斎藤の主張はかなり激越に聞こえる。資本の擁護者はそこに不穏な匂いをかぐことだろう。しかしそうでも主張しなければ問題が解決しないほど、地球の命運は危機にさらされているのである。資本は目先の利益しか考えないから、未来のことはどうでもよい。仮に地球が滅亡するとしても、それは自分が生きているうちには起きないだろうと高をくくっている。しかしそれは根拠のない思い込みというべきだ。いまはそんな思い込みが通用する場合ではない。地球の破壊は、もしかしてあなたがまだ生きている間に起こるかもしれない。そう言って斎藤は、気候変動への抜本的な取り組みとしての脱成長コミュニズムの実践に緊急性を認めているのである。

斎藤のそういう焦りはわからないではないが、しかし地球が明日にも壊れるかもしれないという事態を前にして、それを食い止めるための決め手として、脱成長コミュニズムがいかほど実践的な効果をもちうるか、疑問がないわけではない。



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