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ガルブレイスの依存効果論(需要創出論)


ガルブレイスのいう「ゆたかな社会」論の特徴は、生産が十分に拡大した結果、人々の欲望を十分満足させる規模に達し、、そのため追加的な財の限界効用が低下すると見ることだ。限界効用を引き続き増大させためには、人々の欲望を刺激して、新たな需要を作りだせねばならない。伝統的な経済学ではいわゆる「セーの法則」が働き、生産はそれに見合う需要を作り出すとされていたが、それが通用しなくなった。生産を拡大させるためには、新たな需要を創出せねばならない。このような、需要が欲望の創出に依存するという事態をガルブレイスは「依存効果」と名付けた。

ガルブレイスはこの「依存効果」のアイデアを、ウェブレンの有閑階級の理論から借用したようだ。ウェブレンは人々の見栄とか競争心といった心理的な要因が、浪費的な需要を生み出すと指摘した。それを指摘するだけでは、経済的には大した意義をもたない。しかしそうした浪費的な需要を含めた需要の拡大こそが、経済発展の大きなファクターとなることを指摘すれば、経済学にとっては革命的な変化が生じることになる。それまでの生産中心の経済学から、需要中心の経済学へと劇的な変換が生まれるのである。

生産ではなく需要が経済の規模を決めるという考え自体は、すでにケインズによって打ち出されていた。だがケインズの場合、必要な需要を政府による支出に求めた。ケインズには完全雇用を重視する視点があって、完全雇用に達していない経済には伸びしろがあると考えた。その伸びしろを埋めるためには政府支出によって有効需要を増大させればよい。そうすれば、需要の規模に応じた生産が可能になる。その場合に望ましい規模は、完全雇用を達するために必要な生産であり、それを可能にする需要だということになる。

こうしたケインズの考え方は、成長主義にもとづいたものだ。経済は適切な計画にもとづいた運営によって完全雇用の水準を達成することができる。その水準は絶えず拡大していくはずである。なんといっても人間社会にとっては、経済の拡大は進歩のしるしである。それをもたらすのは生産の拡大であって、その生産を拡大させるためには需要を増大させねばならない、というような理論構成をとっていた。

それに対してガルブレイズには、成長至上主義的な姿勢は感じられない。社会がゆたかになって、人々の欲望が高い水準で満足されるような状態に達すれば、それ以上に経済を拡大する必然的な理由はない。にもかかわらず、経済が拡大に向かって進もうとするのは、生産こそがすべてだとする通念にとらわれているせいだ。ゆたかになった社会には別の選択肢もある。それはゆたかになった結果得られる余剰を、人間的な福祉に振り向けることだ。ゆたかな社会では、すべての人間を生産に駆り立てる必要はないばかりか、場合によっては、経済にとって有害なこともある。ゆたかさをさらに拡大させるために生産の拡大を追求するのではなく、豊かさの果実を適正に分配することも考えるべきだ。そうすることによって。ゆたかな社会は公正な社会になることができる。

こういうガルブレイスの考え方には、シュンペーターに代表される社会民主主義との親縁性を見ることができる。ガルブレイス自身は社会民主主義への共感をあからさまには示していないが、豊かさの果実を適正に分配しようという考えには、社会民主主義的なアイデアを認めることができる。

ガルブレイスは、生産の拡大よりもその分配に関心を向けたのであるが、それには、生産が一定の水準まで拡大すると、自然的な傾向としては、そこで飽和状態になると考えた。その飽和状態においてさえも生産を引き続き拡大させるためには人為的に欲望を作り出さねばならない。今日のアメリカに代表されるゆたかな社会は、そのような飽和状態にある。そした状態では、新たに作り出される需要は、人間の低級な欲望に訴えるような浪費的でむだな需要でしかない。そんなものから成り立っている経済をわれわれは人間的な経済と呼ぶことはできない。人間的な経済はあくまでも公正なシステムでなければならず、それは、生産の拡大ではなく、公正な分配によってもたらされる。

とはいえ、ガルブレイスは生産を軽視しているわけではない。ゆたかな社会そのものが、生産の拡大によって可能になったのであるし、今後、一国内部だけではなく、世界的な規模においてゆたかな社会が実現されるためには、引き続き生産を拡大せねばならぬと言っているだけである。しかしながら、彼が生きたアメリカは、一国単位でゆたかな社会が実現し、したがってその果実を国民の間に適正に分配し、公正な社会をつくるための条件が熟している、と考えるのである。

ということは、ガルブレイスは基本的には、成長は、その気になれば無制約に拡大する傾向を内在させていると考えていたといえる。その点は、ガルブレイスの「ゆたかな社会」を「成熟社会」と言い換えて、成熟社会における成長の限界を指摘している小野善康と異なるところだ。小野善康は、成熟社会においては、経済の規模は臨界点に達し、それ以上成長する勢いを失う、それを放置しておけば、長期にわたる経済停滞に見舞われる、と主張した。




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