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宇沢弘文「経済学の考え方」を読む


経済学史の名著として知られる宇沢弘文氏の労作「経済学の考え方」を再読した。世界規模の経済危機が深刻化し、1930年代位以降最大の経済恐慌も懸念されている現在、経済学がこうした事態に有効な対策を打ち出せないでいるのは何故なのか、その手掛かりを経済学の歴史のなかに見出そうとして、この本を再読した次第なのであった。危機の時代にあってこそ、歴史から学ぶべきものは多いと考えたからだ。

宇沢氏はいうまでもなく、日本におけるケインズ研究の第一人者である。したがって経済学の歴史も、スミスらの古典派の成立に始まって、ワルラスらを中心にした新古典派を経て、ケインズに至って社会的に有用な学としての経済学が初めて可能になった、という認識に立っている。

したがって、1960年代以降に盛んになり、いまでも経済学の大きな潮流として現実の経済活動に大きな影響を及ぼしているマネタリズムやサプライサイド・エコノミクスと称されるものに、信頼を寄せられないでいる。それらは新古典派の静的均衡モデルを蒸し返したものであって、経済学の進化ではなく退化であると断じている。

宇沢氏はそうした経済学を反ケインズ経済学と一括し、その非合理性をついてやまない。新古典派のチャンピオンだったミルトン・フリードマンなどは、経済理論の前提条件を重視せず、理論が導き出す結果に現実的な効果があれば、その理論には政策的な価値があると主張する点で、科学的な態度とは無縁な、政治的な立場を優先させた似非経済学だといって強く批判した。

フリードマンが優先させた政治的な立場とは、新重商主義あるいは市場原理主義というべきものである。すなわち経済活動はすべて自然の流れにまかせるべきであり、政府をはじめ経済外的な主体による規制や介入は一切行うべきではないというものだ。

これが投資家の利害を優先させたものであることは、見え透いたことだ。現在の経済社会には、古典派経済学が思い描いていたような資本家、労働者、地主の対立にかわって、企業、家計、投資家(投機家)の対立が生じており、反ケインズ経済学の徒は、ほかならぬ投資家の利益を代弁したものだ。宇沢氏自身あからさまにはいっていないが、文章の行間からはそんなメッセージが伝わってくる、筆者などはそう感じた次第だ。

投資家は従来の経済学では企業家と合わせ資本家として括られてきた。したがってその活動は、経済活動を実体的に動かし、実質国民所得の増加につながる活動をしているものと、暗黙に了解されてきた。しかしヘッジ・ファンドをはじめ、現在経済の重要なプレーヤーとして登場してきた投資家階層は、実体経済の増大と云うものには関心がない。彼らにとって関心があるのは、自分の投資した金が果実をもたらすかどうかということだけだ。もうかりさえすれば、別に実体経済の景気が良かろうと悪かろうと関係ないのである。

こうした投資家にとっては、金融制度はじめ経済システムが、儲かるようにできていることが肝心だ。国民の福祉とか労働の質の向上とか、そんなことはナンセンスでしかない。

それ故投資家の利益は金利生活者のそれと似ていないわけではない。金利生活者には年金生活者のようなものも当然含まれるが、もっとも大きなウェイトを占めるのは、金を運用することで利益を上げようとする動機を持ったものと定義づけることができる。それが投機家を含めた投資家の本来のあり方だ。

ヘッジ・ファンドなど投資家として目に見える者だけが投資家であるわけではない。金をもてあましながら、なおかつそれを増やしたがっている連中はすべて、この範疇に入るものと考えてよい。つまり金持ち階級全体が投資家としての資格を満たしていると考えてよい。金はいくらあっても、多すぎるということはない。

投資家の利害に立つということは、金持の味方をするということだ。そういう人々には、金持ちから金を巻き上げてそれを貧乏人に分配するような政策は許せない。しかしそれをあけすけにいうことははばかられる。そこで規制緩和が経済を活性化させるとか、減税によって経済のパイが増えれば労働者の所得も増え政府の税収も増えるなどと、ほとんど根拠のない主張をするわけなのだろう。

筆者がこんなことをいうようになったのには、それなりの背景がある。

ケインズは経済主体を三つの階級からなると主張した。投資家、労働者、金利生活者の三つである。ところが氏は労働者と金利生活者を一緒にして家計部門と理解したほうがよいといって、金利生活者の役割を殆ど無視した。このことは氏が、金利生活者を年金で生活するような個人的なイメージでとらえていたことの反映だと思う。

だが、金利生活者には上述したような、広い意味での投資家としての側面もあるのだ。その側面が経済活動の中で大手を振り始めたおかげで、金融危機をはじめとした現代経済に特有の危機が生まれてきた、そういえるのではないだろうか。

金融プレーヤーとしての投資家は、実体経済に寄生するという点で、かつての不在地主に似ている。そういう階層の利益が何よりも優先される社会は、病んだ社会だといわねばならない。

宇沢弘文氏のこの古典的な著作を読み直しながら、こんなことを夢想した次第だった。




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