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スキデルスキー「なにがケインズを復活させたか」


ロバート・スキデルスキー氏は著名なケインズ研究者である。原著で全3巻、2000ページを超える大著「ジョン・メイナード・ケインズ」をはじめ、ケインズに関する膨大な著作がある。生涯をケインズ研究に捧げたといってよい。

そのケインズ研究者であるスキデルスキー氏が、「何がケインズを復活させたのか?」(日本語訳:山川陽一)を書いたのは2009年9月、リーマンショックをきっかけにして、世界中が深刻な不況に突入していた時期だ。氏は、この危機を新古典派に基づく主流派経済学の失敗の結果だと断定し、経済を立て直すにあたっては、ケインズに戻ることが必要だと主張したのである。折から、経済学者のポール・クルーグマンも、ニューヨークタイムズのコラムで、同じようなことを主張していた。

スキデルスキー氏は専門の経済学者ではなく、経済学を理解する歴史学者を自認しているくらいだから、クルーグマンのように、経済理論を真っ向から振り回すようなことはしない。経済活動にとって重要な推進力となっているものを見据えたうえで、それがどのように変動した結果、経済活動がおかしくなっていったか、広いパースペクティヴにたって俯瞰していく。

氏が着目している経済学上のキーワードはいくつかあるが、もっとも重視しているのは不確実性と云う概念である。ケインズは、この概念を非常に重視し、経済変動がおこるのは、人間が不確実性を克服できないことの結果だと考えた。

不確実性とは、未来には人間の予測を超えたことが起こりうるということの了解である。この不確実性があるからこそ、まったく想定していないようなことが発生したりもする。戦争や大規模な技術革新などは、そうした不確実性のなかでも、最も深刻な影響を及ぼすものだ、そうケインズは考えたたわけである。

この不確実性とは、リスクとは違う。リスクとは、統計上の概念である。つまり、なんらかの事態が発生する確率を巡る概念である。したがって、リスクとは制御可能な事態として受け止められる。それに対して、不確実性の方は、基本的には制御不能な事態である。

新古典派理論に依拠した主流派の経済学が陥った誤りは、不確実性とリスクとを混同したことにある、と氏はいう。新古典派は合理的期待形成仮説(この本では合理的予想形成と訳している)に基づいて、効率的市場理論を展開し、経済活動というものには、人間の予想を超えた事象は起こらないという、不合理な前提を立てるに至った。

アメリカを中心に金融市場を席巻した金融工学は、不確実性も含めて、あらゆるリスクを統計的に処理できるという、傲慢な思い込みのうえに成り立っていた。その傲慢さに対する天罰として、今回の不況をうけとめるべきなのだ、そう氏は考えるわけなのだ。

このように、今回の危機をもたらした原因は、人間の傲慢さと、それに支えられた理論の空虚さにあるとするのが、氏の基本的なスタンスであるが、同時に氏は、今回の危機は道徳の失敗でもあった、といっている。道徳の失敗は、人間の傲慢さとも当然関連している。

氏はいう、「道徳の失敗の核心は、経済成長を<よい生活>を達成するための手段としてではなく、それ自体が崇高な目標でもあるかのように扱ったことである・・・いまの社会で道徳を判断する基準になっているのは、堕落して薄っぺらになった経済的厚生の概念だけであり、財の数量によってはかられている。このように道徳が欠落していた点で、グローバル化と金融イノベーションが無批判に受け入れられた理由、人間の様々な関心事のうち富の追及を最優先する慣行が認められた理由を説明できる」

こういって氏は、新古典派の理論家たちが、常識を超えた巨額のボーナスを当然のことのように要求するCEOたちを擁護していることに、嫌悪感を表している。

このように、氏がケインズの復活に関して述べることは、どちらかというと、倫理的あるいは哲学的な視点に貫かれている。ケインズもまた、単なる経済学者にとどまらず、経済を良く理解した哲学者であった。自分もまた、そのケインズの姿勢にならって、今の社会で起きているおかしなことを、おかしなこととして指摘し、おかしくない社会はどうしたら築けるか、そのことを考えたい、そう言っているかのようである。

とはいえ、道徳を云々するだけでは、経済を適切に語ったことにはならない。そこで、ケインズの経済政策の核心はなんなのか、そこが問題になる。その点についての、氏の理解は次のようなものである。

「経済政策では、ケインズ主義が提案できる点はひとつしかない。政府は総需要が完全雇用水準の経済活動を維持するのに適切なものになるようにすべきだという点である」

言い方自体は単純だが、含意しているところは奥深い。政府は、経済活動にとっての適切な枠組みを維持したうえで、その枠組みの中で様々な経済主体が最大限の効果があげられるような活動が可能な社会、そのような社会を責任をもって用意すべきだ、という意味が、この言説には内包されているわけなのだ。




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