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東アジア危機とIMF:スティグリッツのIMF批判


スティグリッツ博士は、IMFが1980年代以降市場原理主義者たちの牙城となり、誤った経済政策を追求することになった結果、1990年代以降、世界経済に破壊的な作用を及ぼしたと、強く批判している。そんな中でもIMFの罪が最も大きいのは、東アジア危機を発生するきっかけを作ったことと、それを大災害へと発展させたことだという。

東アジア危機は、1997年7月2日にタイの通貨バーツが暴落したことから始まった。一夜にして25パーセントも暴落したのである。すると通貨危機が広がり、マレーシア、韓国、フィリピン、インドネシアまで巻き込んだばかりか、翌年にかけてアジアからロシア、ラテンアメリカへと波及し、世界中を脅かした。経済危機は金融危機に留まらなかった、多くの国ではマイナス成長に陥り、失業が拡大し、それに伴って社会不安が増大した。まさに危機的状況が蔓延したわけである。

こうしたすべてのプロセスに、IMFは深くかかわった。それは、金融危機が起きる原因を作ったばかりか、金融危機が起きたときに、それを更に拡大させ、国全体を破滅させるような役割を果たした。それ故、最も打撃の大きかった東アジアの発展途上国は、IMFを災厄の代名詞と考えるようになった。博士は、その辺の事情を次のように総括している。(「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」鈴木主税訳」

「発展途上国の間に、私も共有する認識が広まった。IMFは解決をもたらすどころか、IMFそのものが各国の問題の一部になっていたのだ。実際、危機に見舞われたいくつかの国では、政府の役人やビジネスマンだけではなく、普通の人々までが、自分たちの国を襲った経済的、社会的な嵐を<疫病>とか<大恐慌>とか呼ぶような調子で、ずばり<IMF>と呼ぶようになっている。歴史は<IMF>以前と以後に分けて語られるようになった。ちょうど地震やその他の天災で大きな災害を蒙った国が、ものごとの日付を地震の<前>と<後>で区切っているように」

何が金融危機を発生させたか。スティグリッツ博士は、発展途上国に対してIMFが無理な自由化を迫ったことだと考えている。金融市場と資本市場を国際経済社会に無条件に解放しろと言うものだ。そういわれた国々が、条件が整っていないからと反対すれば、市場がすべてを解決してくれるからと言って、早急な市場の開放を迫った。

IMFの主張を受け入れて自由化を実施した国には、外国から雨のように金が流入してきた。しかしそうした金は、ちょっとしたきっかけで流出するものだ。タイの場合がそうだった。何がきっかけとなったのか、良くはわからないが、タイに流入していた金が一気に流出した。それがタイの金融危機を引き起こし、周辺の諸国をまきこみ、更には世界的な金融危機につながっていったわけである。

東アジア諸国が、外国からの投資によって発展した側面は否めないが、その金に頼る割合が多かった国ほど、流出によって蒙った混乱も大きかった。資本の自由化はいい側面もあるが、急速に行うと、経済が不安定になり、いつ何時深刻な危機に直面しないとも限らない。資本の自由化は、発展途上国を投資家の世界の気まぐれにさらすこととなる。この度の東アジア危機は、こうした教訓をもたらしたといえる。

しかし、IMFがもっとも罪深かったのは、金融危機に陥った国々に対して、危機を更に深刻化させるような行動に出たことだった。IMFはそれらの国々に対して、金利の引き上げ、政府支出のカット、そして増税を求めたのである。つまり緊縮政策の実施である。

景気が後退局面にある時には、金利を引き下げて投資をうながし、政府支出の増加や減税によって有効需要を確保する、これが正当なやり方である。ところがIMFはそれとは正反対のことを要求した。金利を引き上げれば逃げて行った資本がまた戻ってくるに違いない、緊縮財政を取ることはその国の健全さをアピールする効果があり、したがって信用の回復が期待できる可能性が高まる、信用が回復すれば自ずから資金が流入してくる、そういう理屈がつけられた。

しかし結果は惨憺たるものだった。金融危機が収まらないどころか、各国の経済は泥沼の不況にむかって転げ落ちていったのである。

IMFは何故、こんな馬鹿げた要求を突き付けたのだろうか。IMFは東アジアの前にラテンアメリカの危機に対処していたが、その時に用いた政策を、吟味することなしにそのまま、適用しようとしたのである。ラテンアメリカの場合にはハイパーインフレが進行していて、それを抑えることがすべてに優先した。それ故それらの国々に金利の上昇を求めることには合理性があった。

しかし東アジアの国々では、インフレ傾向は見られなかったし、政府の財政基盤も安定していた。だから金利アップや緊縮財政政策には大した根拠がなかったのである。そういう状態で、ワシントン・コンセンサスに基づく政策が強要されれば、経済が破壊されるのは目に見えている。そこがIMFには見えていなかったわけである。

IMFは、東アジアの国々をどん底に陥れたばかりではない。どん底から立ち上がらせようとして日本政府が差し出した救済案に猛烈に反対した。その案とは、日本が中心になって「アジア通貨基金」を創設し、域内の金融の安定化をはかろうとするものだった。IMFがこれに反対した理由は、ライバルの登場を嫌ったことだ。またその背景にはアメリカ財務省の意向が働いていたが、アメリカ財務省は、国際経済における自らの覇権を揺るがすようなものの存在を許せなかったのだ。

IMFはまた、構造改革と称して、これらの国々の銀行政策に強く介入した。そのやり方が、自己資本比率を通じて銀行をコントロールし、それ以外の規制は撤去させるというものだった。この自己資本比率政策の強要が、すでに不況に直面していた国々にダブルパンチとして襲い掛かってきた。

青息吐息の状態にある銀行が自己資本比率を伸ばすには、方法は二つしかない。資本を増やすか、融資を減らすかだ。資本は増やせないなら、融資を減らすしかない。銀行が融資を減らすことによって、経済はますます悪化していく。こうした悪循環が働くようになったのである。

こうしてみると、IMFはいついかなる状態にあっても、金融変数ばかりに着目し、GDP,失業率、実質賃金と言った厚生指標を軽視していることがわかる。そうした姿勢が各国の実体経済に破滅的な効果をもたらす一方、国際的な投機家たちは、自分たちの金がIMFによって守られていると安心することができるのである。

東アジアの国々には、IMFのいうことを鵜呑みにしなかった国もあった。たとえばマレーシアである。マレーシアでは、景気後退を阻止するためのケインズ的な政策を重視する一方、強力な資本取引規制を行った。その結果、マレーシアは他の国ほど深刻な景気後退を経験せず、不況からの回復も早かった。

また中国はほとんど全面的に、IMFの方針とは異なった道を歩んだ。その結果、深刻な不況には陥らなかった。そう博士はいって、IMFがいかに災厄の種になっているかを、声を大にして言っているわけなのである。




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