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大瀧雅之「平成不況の本質~雇用と金融から考える」 |
大瀧雅之「平成不況の本質」を読んだ。副題に「雇用と金融から考える」とあるように、この本は平成不況と称されるものが、主として雇用の破壊と云う形で現れ、それが消費の縮小を通じて経済のさらなる縮小と云うマイナスの循環をもたらしてきた一方、企業所得のほうは一貫して拡大してきたことを説明している。 企業所得の中でももっとも伸びたのは金融部門である。それが経済のグローバリゼーションと金融化を反映したものであることは見え透いたことである。 著者は、1980年代半から現在までにいたる25年間を、1986-1990年のバブルの時代、1991-2000年の失われた10年間、2001-2010年の10年間を構造改革の時代と区分し、その間における各所得要素の推移について分析している。 ・・・・・・・・・・・・・バブル期・・・失われた時期・・構造改革期 名目国民所得の平均年額・・約 300兆円・・約370兆円 約362兆円 名目企業所得の平均年額・・約 67兆円 約 72兆円 約 88兆円 名目雇用者所得の平均年額・約 199兆円 約266兆円 約261兆円 この表から読み取れるのは、失われた10年間といわれ、経済がマイナス成長していたと思われていた1990年代において、どの要素もバブル期よりは伸びている事、構造改革期は失われた10年の反動として経済が伸びた時代だと思われているが、実際は失われた10年よりも後退している事、だが企業所得だけは引き続き伸びている事である。 このことから著者は、小泉・竹中の構造改革路線が、日本経済にとってもっていた本質的な意味を探り出している。 それは一言でいえば、株主主権の徹底化ということである。企業所得は、労働者の雇用者所得の伸びをはるかに上回る規模で伸び続けたが、その果実はもっぱら株主の側に回った。これが株主主権と云われるものの実態である。 このことは、一昔前までは日本的経営の常識であった企業の社会的な性格の否定を意味した。一方、公的な性格の強かった組織形態(たとえば郵政)が、民営化と称してどんどんつぶされていった。そこには何もかも民営化の方が優れているといった公共性を軽視する姿勢が働いていたこともあるが、そもそも、企業体というものは押しなべて投資家たちの投資機会の拡大をもたらすべきだ、という拝金主義的な考えが蔓延したことを意味している。 繰り返すが、日本の企業経営の伝統的なあり方は、企業を社会の公器として、従業員、関連企業、株主のそれぞれに平等な目配りをしながら企業経営することにあった。構造改革路線はそれを、株主の短期的な利益のみを考慮する近視眼的なあり方に誘導してきたのである。 その結果なにが起こったか。労働者の分け前を減らし、下請けをいじめて利益を確保し、それを株主への配当にあてる、こうした短期的な目的を優先するあまり、将来を見越した計画的な経営がないがしろにされるようになった。その結果日本経済全体が実質的に縮小再生産のパターンに落ち込むことともなった。 著者は、こうした傾向を治さねばならないと声を大にして叫んでいるようだ。日本経済は病んでいる。適切な治療が必要だ。その処方箋を描くにあたっては、労働者にもっと分け前をあてるような措置が講じられるべきだ。著者の診断にはこうした判断が働いているようだ。 |
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