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シュンペーターのマルクス批判


シュンペーターは、マルクスに両義的な感情を持っていたようである。かれは、資本主義がそれに固有な内在的傾向によって社会主義に転化するとした点ではマルクスと同じ意見を持っていたのだが、それの具体的な理解の点で違っていた。マルクスは資本主義没落の原因を、それの抱える矛盾に求めた。その矛盾が資本主義への抵抗に火をつけ、没落させると考えた。いわば資本主義の失敗がその没落を招くと考えたわけだ。それに対してシュンペーターは、資本主義が没落するのは、その矛盾によってではなく、したがって失敗によってではなく、かえって成功によってだと考えた。資本主義が成功すればするほど、それは社会主義を招き寄せると考えたわけである。

そうした理解の相違は、経済についての見方にもとづいている。マルクスの経済学説は、労働価値説の上に成り立っている。労働価値説というのは、マルクスがリカードーから受け継いだものだが、それは単に経済現象を説明する根拠となったばかりでなく、階級対立とかその矛盾の爆発としての革命を説明するための根拠ともされた。それに対してシュンペーターのほうは、マルクスが俗流経済学と呼んだような理論に依拠していた。シュンペーターは、ワルラスの一般均衡理論を自分の学説の基礎としたわけだが、この一般均衡理論というのは、経済現象を需要と供給という心理学的な概念によって説明するもので、労働という実体的なものに価値の源泉を求めるマルクスの経済理論とは対極にあるものである。

資本主義が社会主義に道を譲ると予測する点では、シュンペーターとマルクスの間に大した相違はない。しかしその原因についての見解は大分違っている。マルクスは資本主義が抱える矛盾が爆発して社会主義へ道を譲ると考えるのに対して、シュンペーターは資本主義の成功が社会主義への道を用意すると考える。これは、資本主義の社会主義への転化をめぐる議論にとって、些細なことのように見えて、実はそうではない。マルクスの説によれば、資本主義の没落は暴力革命によってもたらされる。シュンペーターの説によれば、資本主義が自然と社会主義化するのであって、そこに暴力革命の介在する余地は全くないといってよい。これは社会理論としては大事なことだ。暴力を必然視する社会理論はよくない。暴力なしでも説得力を持てる理論の方が望ましい。そうシュンペーターは考えて、マルクスへの批判にこだわるわけであろう。

そんなわけで、シュンペーターのマルクス批判の要点は、経済学の概念をめぐるものが中心となる。その他にシュンペーターは、マルクスは宗教的な預言者だとか、弟子たちを鼓舞する教師だとか言って、経済学以外の部分にも注意を促してはいるが、それはたいしたことではない。どうでもいいような指摘である。やはりかれのマルクス批判の要点は、その経済学説に向けられている。

マルクスの経済学説をめぐるシュンペーターの批判は、まず労働価値説に向けられる。労働価値説こそ、マルクスの経済学説の基礎をなすところからして、当然のことといえよう。ところがそれが、気が抜けるほどあっさりとしているのである。というのもシュンペーターは、「今日では労働価値説は死滅し葬り去られたものである」としか言わないからである。「死滅し葬る去られたものである」から、もはやまともに相手にする必要もないと言わんばかりである。労働価値説がなぜ死滅し葬り去られるに至ったか、そのことについてシュンペーターはほとんどなにも言っていない。そこからは、労働価値説に対するシュンペーターの忌々しそうな拒絶感が伝わってくるだけである。シュンペーターはイノベーションを重視する経済学者であり、そうしたイノベーションが企業家精神というものに支えられている限り、企業家のそうした努力にも商品価値の源泉を認めてよいと考えていたようなので、そうしたものを一切捨象してしまう労働価値説に、かれが拒否感を抱くのは無理もないとはいえる。

労働価値説批判をめぐって、唯一意味がありそうなのは、それが完全競争を前提にしていると指摘していることだろう。マルクスの労働価値説は、実際に具体的に費やされた労働がそのまま価値として実現するわけではなく、競争を通じて費用価格が平均化されるプロセスを通じて実現するとした。そのプロセスが完全競争を前提にしているという指摘はそのとおりである。それについてシュンペーターは、いまでは完全競争の前提は成り立たず、不完全競争とそれにともなう価格の硬直性が広く認識されていることを理由に、シュンペーターはマルクスの労働価値説の無意味さを強調するのであるが、これは的外れの指摘というほかはない。完全競争の前提は、マルクスのみならず、マルクスの時代の主要な経済理論がいずれも採用していたものだ。シュンペーターが強い影響を受けたワルラスの一般均衡理論も完全競争を前提としている。不完全競争とかそれにともなう価格の硬直性といったものは、20世紀以降に注目されてきたもので、資本主義のある種の変質を反映したものだ。だから、そういった視点が欠けているからといって、マルクスの労働価値説を無意味だというのは言い過ぎというべきである。

完全競争モデルがいわゆるセーの法則を成り立たせ、その法則が長らく経済理論を支え続けてきたというのは、森嶋通夫の指摘のとおりである。セーの法則の虚偽性を本格的に指摘したのはケインズである。ケインズ以前には、マルクスならずとも、ふつうの経済理論はどれでもセーの法則と、それが前提とする完全競争モデルを採用していたのである。

労働価値説と不可分一体のものとしての剰余価値説についても、シュンペーターは強い拒否感を示す。マルクスは資本を不変資本と可変資本に区分し、不変資本はその価値をそのまま商品の中に移すだけで、それ自体では新しい価値を生まない。新しい価値すなわち剰余価値を生むのは可変資本としての人間労働だけだと主張したわけだが、これがシュンペーターには気に入らない。ただその理由を、説得力を以て説明しているとはいえない。かれは不変資本からも利潤が生まれてくると思っているようだが、それを表立って主張せずに、企業家の努力も利潤の源泉になると指摘するのみである。その企業家の働きについてマルクスは何もわかっていなかったと言って、強い反感を示すのである。

不変資本と可変資本の割合をマルクスは資本の有機的構成と呼び、それの長期的に見ての高度化が、利潤の低下をもたらすと考えた。そして利潤の長期的低下の傾向は、資本主義が終わりに近づいていることのシグナルになると考えたわけだが、それに対してもシュンペーターは批判的である。シュンペーターは、先ほどもふれたようにイノベーションを重視する立場だったから、イノベーションを通じて利潤が増大する傾向も重視したわけである。

シュンペーターはまた、マルクスの窮乏化理論にも批判の矛先を向ける。窮乏化は労働者階級の状態を局限まで悪化させ、それから生まれる怒りが暴力革命を呼び込むと考えられたわけだが、それをシュンペーターは否定する。長期的に見ても、労働者階級の待遇が、絶対的にも相対的にも悪化したとはいえない。かえって労働者の生活水準は上がっているはずだ、というのがシュンペーターの見立てである。たしかにそのとおりと言えなくもない。それについては、労働市場への国家の介入がものを言ったと指摘できる。労働市場への国家の介入ということはマルクスも認めており、工場法の改正によって労働者の待遇が改善されてきたことを指摘してもいる。それは市場の外からの介入であって、その介入を要請させたものは、放置していては資本主義経済の土台が掘り崩されかねないという危機感が、当の資本家階級を含めて社会の雰囲気になったためである。資本主義的な市場システムには、それ自体としては、労働者階級の待遇を改善しようという動機は見られない。放置しておけば、労働者の待遇は悪くなるばかりである。マルクスが、窮乏化理論で指摘したのはそういうことであった。だから、国家による外からの介入で労働者階級の待遇が改善された事態を以て、マルクスの窮乏化理論を攻撃するのは、これも的外れというほかはない。

そのほか、景気循環とか機械化とか資本の蓄積などをめぐって、シュンペーターはマルクスを批判するのであるが、それらの大部分は、マルクスが死んだ以降に表面化してきたもので、それを以て死せるマルクスに鞭打つのは、フェアなやり方とは言えないだろう。



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