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シュンペーターの民主主義論


シュンペーターの民主主義論の特徴は、民主主義と社会主義との相性について着目することにある。というのもかれは、民主主義をブルジョワ社会の産物と考えているからだ。としたら、ブルジョワ社会が廃棄されるのと同時に民主主義も無意味になるのか、ということが問題となる。そのことをかれは、「社会主義はそもそも民主主義的たりうるや否や、またそれはいかなる意味においてそうでありうるか」という言葉で表現する。

シュンペーターがこのように問題設定するのは、民主主義というものを非常に高く評価しているからだ。それはたしかにブルジョワ社会の産物として、歴史的制約を帯びているかもしれない。しかしそれに代る政治的なシステムがあるだろうか。いまのところ、そのようなものは見当たらない。民主主義が否定されたら、多かれ少なかれ専制的なシステムがまかりとおるのではないか。じっさい歴史上に成立した現実の社会主義国家(ソ連のこと)では、ある種の専制政治が行われている。そんなこともあってシュンペーターは、社会主義と民主主義との関係に敏感たらざるを得なかったのだと思う。

社会主義と民主主義の関係について議論するにあたっては、民主主義の概念について正確に定義する必要がある。でなければ無用の議論に陥るからだ。民主主義の定義については、古典的民主主義論というべきものがある。アメリカの独立戦争やフランス革命を主導した理論で、一言で言えば、人民が自らを支配するというものである。人民が統治の客体としてではなく、統治の主体として、あらゆる政治的決定に参加する、というのがこの理論の内実である。こうした意味合いにおいての民主主議論は、ある種の(古典的)社会主義者も共有している。そうした社会主義者は、社会主義こそもっとも理想的な民主主義の形態だと主張する。なぜなら社会主義は、人民の大多数の意思を表現する制度だからだ、というわけである。

シュンペーターは、古典主義的民主主義とか、それを取り入れた一部の社会主義的民主主義については懐疑的である。それはある種の理想、それもありえない理想を語っているだけで、現実に立脚していない。だからそんなものを議論の前提にするわけにはいかない、というのである。

シュンペーターは民主主義を次のように定義する。民主主義とは、一つの政治的方法にほかならない。それは、「政治的―立法的、行政的―決定に到達するためのある種の制度的装置にほかならないのであって、一定の歴史的条件のもとでいかなる決定をもたらすかということと離れては、それ自体で一つの目的たり得ないものである」。つまり民主主義とは政治的決定のための手段であって、それ自体が目的ではないというわけだ。

民主主義を政治的決定の手段とする考えはカール・シュミットと共通している。シュミットは民主主義をそのように見ることで、民主主義はさまざまな政治形態と結びつきうると主張した。民主主義と自由主義とのあいだには必然的な結びつきはないし、また民主主義が独裁を生むこともありうる。それは民主主義が政治的決定のための制度的な装置であることに基づいている。シュミットはそう言ったうえで、国家の緊急事態においては、民主主義に期待すべきではない、と結論付けたわけだが、シュンペーターはそうは考えない。いかなる場合でも、政治的決定は民主主義的になされねばならない、社会主義においてもそれは変らない、と考える。

民主主義は政治的決定のための方法だと言ったが、それはどのような方法なのか。政治的決定には、直接的なものと間接的なものとがある。直接的なものは、人民自らが直接決定に参加することで、いわゆる直接民主主義をモデルにしている。しかしこれはスイスのようなきわめて小規模な社会以外では現実的ではない。ほとんどの場合には、間接的なプロセスが採用されている。代表民主主義というべきものである。これは人民が、政治家を選ぶというものである。選ばれた政治家が、人民に代わって統治する。統治の主体は政治家であり、人民は統治される客体である。しかし人民には、政治家を罷免する権限がある。だから政治家が人民の意に反する行為をしたならば、それを罷免して別の者を選ぶことができる。こうした仕掛けが、政治の民主主義的運営を担保している、そうシュンペーターは考えるのである。

このように、民主主義とはあくまでも政治的決定のための方法なのであるから、それがどのような決定と、その結果としてどのような政治体制をもたらすかは、別の事柄である。決定するのは人民であるから、その決定は人民の資質に作用されるであろう。その人民が、イギリス人が好むような功利主義的でかつ合理的な民族性をもっているなら、比較的自由な社会が生まれるだろう。これに反して、人民が宗教的熱情に駆られていて、非合理な民族性をもっているなら、熱狂的な宗教政治が生まれるかもしれない。どちらも民主主義と矛盾はしないのである。アメリカにトランプのような政治家が現われて、無茶苦茶なことをするようになっても、なおアメリカが民主主義国家であることを疑うものはいない。なぜならトランプを生んだのはアメリカの人民であり、かれを権力の座から追い出したのもアメリカの人民だからだ。

以上を踏まえたうえでシュンペーターは、社会主義と民主主義との相性を問題とする。手短に言えば、シュンペーターが定義するような民主主義と社会主義との間には必然的な関係はない。「一方は他方なしに存在しうる。と同時に、両者はけっして両立しがたき関係にあるものでもない。適当な社会的環境のもとにおいては、社会主義は民主主義的原理に従って運営することができる」。

シュンペーターとしては、社会主義は避けられない未来であると考えるだけに、それが民主主義的に運営される可能性を追求したいのであろう。その場合に、民主主義的方法が成功するためには、いくつかの条件があるといって、シュンペーターは以下の四つのものをあげる。

第一は、政治の人的素材(政治家たち)が十分に高い資質をもっていること。これは以外に重要なことで、じっさい現代の民主義国家といわれる国においても、イギリスを除いては、そうした人材に豊富なところは少ない。ましてや新しく生まれる社会主義国家においては、そうした人材を大量に育てることが必要である。でなければ、有能でかつ人民の意志に忠実な政治は期待できないであろう。

第二は、有効な政治的決定の範囲があまりに広すぎないこと。これは人民の自治能力が高いことを前提としている。人民の自治能力が高いところでは、政治的決定の多くの部分が人民によって自主的に解決され、政治問題化することがない。それは社会の分裂とか軋轢が少ないことを意味している。分裂の深い社会は、生きやすい社会とはいえない、というのがシュンペーターの考えである。

題三は、よく訓練された官僚の組織をもつこと。これも大事なことである。とくに社会主義は、官僚組織の役割が大きくなると考えられるので、一層官僚の資質が重要になる。そうした官僚組織の理想像を、シュンペーターはイギリスに見ている。イギリスの官僚は、知的能力が高く、しかも政治家から比較的独立しているために、公正な仕事ぶりが期待できる。それに対して日本の官僚は、有力政治家に忖度する癖が身にしみこんでおり、決して有能でもないと見られる。これは社会主義との関連を離れても、困った事態である。

第四は、民主主義的自制と呼ぶべきもの。これは政治家のほうにも求められるし、人民のほうにも求められる。政治家が放縦であっては国は滅びるであろうし、人民が政治家に懐疑的であっても、国はうまく成り立たないであろう。以上四つの条件に加えてシュンペーターは、異なった意見に対するきわめて広い寛容をあげている。不寛容は社会を分断させる。だから寛容は、社会主義であると否とを問わず、あらゆる社会の基礎的な条件だというべきなのである。

ともあれシュンペーターは、民主主義の歴史的制約を認めながらも、それが社会主義においても有効に機能することを望んでいるのである。



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