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日本人とエピステーメー


フーコーの「言葉と物」を読んで、いささかでも首肯したところのある日本人読者なら、フーコーの言うような「エピステーメー」が、日本にも存在し、かつ今でも存在しているのか、反省してみたくなるだろう。そこでまずとりかかるべきは、今現在の日本人にはそもそも、世界認識とか知の構成を規定しているエピステーメーは存在するのかということであろう。

といっても、エピステーメーを抽象的に論じてもなかなか課題が見えてこないと思うので、フーコーの言うような西欧近代のエピステーメーと比較して、日本にはそれと似たようなものがあるのかどうか、という身近な問題から始めたほうがよいと思う。

フーコーの言う西欧近代のエピステーメーは、いまだに西欧人の思考のスタイル(知の枠組み)をなしているとともに、それによる世界認識の成果は、人間諸科学という形で結晶している。この西欧近代の人間諸科学と言われるものは、日本でも盛んであるから、表面的には、西欧近代のエピステーメーが日本にも根付いているのだと見えないこともない。しかし、西欧由来の人間諸科学が西欧近代のエピステーメーと深く結びついているといっても、日本でも、両者は深く結びついた状態で受容されているのかと言うと、かならずしもそうは言えない。日本人は、西欧由来の人間諸科学を、その上澄みのレベルで取り入れているに過ぎないのであって、人間諸科学の根底にある世界認識の枠組み自体は置き去りにしている、ということも考えられるからである。

そこで、日本人が諸外国の文化を取り入れてきたこれまでの歴史が一つの参考になる。日本人は、有史以来諸外国の進んだ文化を取り入れて、それを自分なりに吸収・加工しながら、自分なりの文化を創ってきた。大昔においては、外国の進んだ文化は中国大陸の文化であり、明治維新以降は西欧文化がそれに代わったことは言うまでもない。面白いのは、この外国文化の吸収の仕方に一定のパターンがあることだ。これは、丸山真男が指摘したところで、外国文化の受容に連続性が見られないということを特徴としている。新しく移入された文化は、それまでの文化のかたわらに、単に付け加えられるだけで、連続的な進化・発展と言う形をとらない。唐突に入ってきて、それまでの文化とは本質的な関連をもたないまま、単に上積みみされるにすぎない。新しい移入文化は、古い文化と融合することもなければ、それに全面的にとって代わるということもない。古い文化と並んで、それと共存するような形で定着する。唯一つ古い文化との違いは、それが古い文化より時間的に新しく日本に入ってきたと言うその一つの理由で、古いものよりも優れていると、錯覚されるだけのことである。

明治維新以降の西欧文化の移入は、まさにこのパターンにしたがってなされてきた。時代の移り変わりに従って西欧由来のさまざまな思想・学問が日本に入ってきたが、新しく入ってきた学問は、その前の学問と融合することもなく、したがってそれまでの学問からの進化・発展という形態をとることもなく、西欧においてすでに確立され終ったレディ・メイドの品物として入ってきた。レディ・メイドであるから、なにからなにまで一式そろった製品となっている。そうした製品は、すでに出来上がったマニュアルにしたがって操作すればよいので、日本人は、そうしたレディ・メイド製品の背景にあるコンセプトというものを気にする必要はない。

こうした意味合いでは、日本が西欧の人間諸科学を移入したといっても、それとともにそうした学問の根底にある近代のエピステーメーまで移入したとは言えない。エピステーメーを置き去りにして、その成果ばかりを移入したわけだ。だから、人間諸科学がともに共通の基盤の上に立っているなどと言うことは、意識されない。フーコーは精神分析と文化人類学を双子の学問のように扱っているが、日本人はそれらを相互に全く無縁な学問として疑わない。それらの学問に通底しているエピステーメーを全く考慮しないからだ。

こんなわけでどうも日本人は、西欧のエピステーメーと知の枠組みを共有するようなエピステーメーを持っているのだとは、言えないようだ。しかし、シナ人にもシナ人なりの知の枠組みがあるとフーコーが言ったように、日本人にも日本人なりの知の枠組みがあるはずだ。その枠組みこそはフーコーが「エピステーメー」と言っているものにほかならないから、日本人にとってもエピステーメーは存在すると言えなくもない。

では、どんなエピステーメーか。こういう問題設定をすると、話が大きくなり、文明論的な壮大な議論になりがちだ。筆者は文明史家でもないし、フーコーのような哲学者でもないから、あまりえらそうな議論はできないが、ここに一つの手がかりとして、敗戦前の日本人の思考の特長ともいうべきものを取り上げて、それをもとに日本人のエピステーメーを考えるきっかけにしたいと思う。

戦前の日本人の思考パターンを単純化して言うと権威的世界観と言うことになろう。これは、自然と人間社会をすべてひっくるめて、上下関係を本質とする権威的な階層秩序として見るものである。人間社会は、天皇や将軍に体現される最高権力者を頂点とし、そこから一般庶民にいたるまで、下降的(=上昇的)な秩序が形成される。この階層秩序の内部では、丸山真男が言う「抑圧の委譲」のようなことが横行しているわけだ。

人間社会における階層秩序と類比的に、自然界も階層秩序からなっていると捉えられる。天を頂点とし、草木を底辺とする階層的な自然像が、最高権力者を頂点とし下々の人間を底辺とする階層秩序的な社会像と重なるわけである。そうした点では、神を頂点とし禽獣草木を底辺とした西欧の中世・ルネサンスの世界観である「存在の連鎖」と似ていなくもない。

この権威的階層秩序は、世界観=世界の見方であって、フーコーの言うようなエピステーメーとは違うと言う意見もあると思うが、戦前の日本人の権威主義的な見方は、単に世界の見方と言うにとどまらず、彼らの認識の枠組みともなっていたと考えられるのである。どんな対象も、それ単独では認識されず、かならず階層秩序のどこにあるかという具合に認識された。つまり、階層にこだわる権威主義的な姿勢が、認識のあり方をも規定していたといえるのである。そうした意味合いで、戦前の日本人の認識には、権威的秩序と言うバイアスがかかっていた。そのバイアスこそが、エピステーメーと言えるのではないか、というのが筆者の考え方である。

この権威的世界観、階層秩序にもとづく知の構成、というものが成立したのはいつごろのことか。筆者はそれを、徳川封建体制が安定期に入る17世紀中ごろのことと見ている。徳川幕府が、自分らの支配を正統化するために、名分論的な階層秩序を重んじた朱子学を積極的に取り入れたのは周知のことだが、それが一般庶民をも巻き込んだ形で、日本人のモラルの原理となった。日本が儒教社会として確立されたのは、こうした事情によるのである。

なにしろ徳川時代の日本というのは、変化の乏しい社会であった。変化が乏しいばかりか、人口もほとんど増えず、むしろ停滞した社会と言ってよかった。そんな社会のあり方を合理化するものとして、儒教イデオロギーは都合がよかったわけである。普通イデオロギーと言うのは、支配階級が自分の支配を正統化するものとして機能させるわけであるが、時にはそのイデオロギーを一般庶民までが内面化するということも起きうる。徳川時代には、その庶民による儒教イデオロギーの内面化が起こったのであるが、内面化されたイデオロギーはもはやイデオロギーとは言えなくなり、人々の思考や行動の原理となる。つまり、フーコーの言うエピステーメーのような機能を果たすようになるわけである。

こうしてみると、日本におけるエピステーメーのあり方は、道徳と結びついたような性格を強く帯びている。道徳と結びついていたからこそ、明治維新によっても廃絶されずに、そのまま日本人の思考や行動の原理であり続けた。それが日本人に影響力を持たなくなるのは、というか影響力を弱めるようになるのは、敗戦以降のことである。敗戦をきっかけにして、日本人の思考や行動の様式が大きく変化した。それはフーコーの言うような意味でのエピステーメーの変転と言ってもよい事態だったが、日本の場合には、西欧のように新しいエピステーメーが古いエピステーメーに全面的にとって変わったというわけではなかったようだ。権威主義的な見方は、いまでも多くの日本人を拘束しているからである。

徳川時代に成立した権威主義的な知の枠組みを、ここではとりあえず「封建主義時代のエピステーメー」と呼んでおく。そのエピステーメーは、17世紀の半ばごろに成立し、明治維新によっても廃絶されることなく生き残ったが、20世紀の半ばに、敗戦をきっかけにして影響力を弱めた、と言えるのではないか。

この「封建主義時代のエピステーメー」より前の時代には、どのようなエピステーメーが存在したのか、それについては別途考えたいと思う。


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