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セクシュアリテと権力:フーコー「知への意思」


「知への意思」第四章「性的欲望(セクシュアリテ)の装置」においてフーコーは、セクシュアリテと権力とが互いに深く絡み合っているさまを描き出した。フーコーの認識によれば「セクシュアリテ」というのは、ヨーロッパの歴史においては、ブルジョワジーの登場と共に歴史の正面に出てきたものであり、そういう意味ではブルジョワジーに固有の、階級的な色彩を帯びたものなのである。「ブルジョワジーの性的欲望というものがある、階級的な性的欲望があるのだと言わなければならない。というよりかむしろ、性的欲望(セクシュアリテ)というものは起源からして本来的に、歴史的にブルジョワジーのものであり、その連続的な移動とその転移において、特殊な階級的作用をもたらすものなのだ、と」(「性の歴史」第四章、渡辺守章訳、以下同じ)

一方、近代ヨーロッパ社会で支配的な権力を揮っているのがブルジョワジーだとうことは、フーコーによれば、言うまでもないことだ。ブルジョワジーによる権力の行使は、それ以前のものと比べると著しい差異がある。ブルジョワジー以前の権力は、古代の専制的権力や中世の神権的権力そして古典時代の絶対主義的権力に至るまで、社会にとって外在的で抑圧的な支配体制としてイメージされるが、ブルジョワジーの権力はそのようなものとは異なっている。フーコーが(ブルジョワジーの)権力という言葉でイメージしているのは、「特定の国家内部において市民の帰属・服従を保証する制度と機関の総体としての『権力』のことではない・・・また、暴力に対立して規則の形をとる隷属の仕方でもない。更にそれは、一つの構成分子あるいは集団によって他に及ぼされ、その作用が次々と分岐して社会体全体を貫くものとなるような、そういう全般的な支配の体制でもない・・・これらはむしろ権力の終端的形態に過ぎない」(同上)

ブルジョワジーの支配する近代ヨーロッパ社会においては、「権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ」。そのようなものとしての権力は至るところにある。「すべてを統括するからではない、いたるところから生じるからである」。フーコーはこう言って、権力というものは人間関係の存在するところには、それにともなって必然的に発生するのだと主張するのである。そしてそれらの人間関係のうち、ブルジョワジーにとって最も重要なものがセクシュアリテを通じての関係(性的関係)なのである。それ故、近代のブルジョワ社会において、セクシュアリテと権力とが深く絡み合うのは、ある意味必然なわけである。

ここで、近代ヨーロッパ社会における権力の特徴についてのフーコーの要約を見ておこう。権力とはまず、「手に入れることが出来るような、奪って得られるような、分割されるような何物か、人が保有したり手放したりするような何物かではない」。つまり、伝統的な定義に含まれていたような意味での物理的な力ではない。また、「権力の関係は他の形の関係(経済的プロセス、知識の関係、性的関係)に対して外在的な位置にあるものではなく、それらに内在する」。更に、「権力は下から来る」。伝統的な権力観によれば、権力は社会に対して外在的であるとともに、上から押し付けられるものであったが、近代ブルジョワ社会においては、社会の基層から表面へと上昇していくものなのである。次に、「権力の関係は、意図的であるとともに、非―主観的である」。つまり、王のような権力を体現した主体は、ブルジョワ社会においては存在せず、権力は匿名的な存在性格を帯びるということである。最後に、「権力のあるところには抵抗がある」。この規定性は前四者とは次元が違うと思われるが、人間関係における相互の絡み合いは、作用と反作用とからなっているということのようである。そう言うことでフーコーは、抵抗が権力に対して外在的であるのではなく、権力に内在した、いわばその不可欠の構成要素なのだと言いたいのかも知れない。

このように定義された権力がセクシュアリテとどのように絡み合うのか。これを分析する為には、セクシュアリテ(性的欲望)に対する、ブルジョワジーの基本的な姿勢の特徴を理解しておく必要がある。

第一章「我らヴィクトリア朝の人間」においてフーコーは、セクシュアリテに対するブルジョワジーのかかわり方について語った。一見してブルジョワジーは、性に対して抑圧的な態度をとっているように見えるが、実はそうではなく、性について異常に饒舌だというのが、そこでの結論だった。ブルジョワジーが支配的階級となった近代ヨーロッパ社会ほど、性について饒舌な社会はなかった。ブルジョワジーは、セクシュアリテのあらゆる面について、それを言説化しようとした。「十六世紀以来、性の『言説化』は、制約を蒙るどころか、反対に、いよいよ増大する扇動のメカニズムに従属していた」というわけである。

ブルジョワジーがかくも性の言説化にこだわり続けてきたのは何故か。少なくともそれは、他の階級(プロレタリアート)を抑圧する手段としてではない。「性は、ブルジョワジーが、自分の支配する者たちを働かせるために、価値を貶めたり否定したりしなければならなかったそういう身体の特定の部位ではない。それは、ブルジョワジー自身の特殊な要素であって、他の何にもましてブルジョワジーを不安に陥れ、心配の種となり、その配慮を呼びさましその対象となったもの、ブルジョワジーが恐怖と好奇心と、淫したような快楽と熱情の入り混じった感情を抱いて、後生大事に陶冶したものに他ならない」。つまりセクシュアリテ(性的欲望)とは、ブルジョワジーの階級としての特有の存在様態をあらわした言葉なのである。それ故我々は、ブルジョワジーを「性的階級」あるいは「性に存在根拠を持つ階級」と呼んでしかるべきだろう。

このようにセクシュアリテは、「他の階級を隷属する企てであるよりは、一つの階級の自己確認である。自衛であり、保護であり、強化、高揚であって、それらが次いで~様々な変形を代償として~経済的管理と政治的隷属の手段として、他の階級にも及ぶことになったのだ」。それ故他の階級(プロレタリアート)は、「このような性的欲望はブルジョワジーの問題であって自分たちには関係ないと主張する傾向も生まれた」というわけなのである。

しかしプロレタリアートといえどもも、いつまでそうとばかりも言っていられない。いったんブルジョワジーがセクシュアリテを支配の手段として確立すると、セクシュアリテが社会の至るところの局面を貫くようになる。セクシュアリテが支配の手段となることは、セクシュアリテが権力と結びつくということである。ここで、セクシュアリテと権力との絡み合いという、上で設定した問題に立ち返ることになる。

フーコーはセクシュアリテを、最も純粋な意味における「生の発露」という風に捉えている。「性=生」なのだ。あるいはその逆である「生=性」も成り立つ。要するに性と生とは同族の概念なのだ。ブルジョワジーの権力はだから、「性=生」を管理する権力となる。その点では、「死」を管理することに存在意義の源泉があった古典的な権力とはまったくベクトルの方向が違う。ブルジョワジーの権力は、性をコントロールすることを通じて、国民の生をコントロールするのだ。古典的な権力が死を以て人々を抑圧・支配するのにたいして、ブルジョワジーの権力は、国民の福利・衛生や人口のコントロールを通じて、国民全体の生について配慮するのである。それはだから、「殺す権力」ではなく、「生かす権力」である。

ブルジョワジーは、自分たちの生き方のモデルを、セクシュアリテを中心にして構築したうえで、それを社会全体に適用したわけだが、そのモデルを作り上げている原理は「生=性」という彼等の確信なのである。


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