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フーコー「自己への配慮」:「性の歴史」三部作


「性の歴史」第二巻「快楽の活用」において、紀元前四世紀の古典古代のギリシャにおける「性」について考察したフーコーは、続く第三巻「自己への配慮」においては、紀元後一・二世紀(帝政ローマ時代)のギリシャ・ローマ文明における「性」を考察の対象とする。それに先立ってフーコーは、紀元二世紀後半に活躍したギリシャ人アルテミドロスの著作「夢を解く鍵」を、この考察の手がかりとして、分析して見せる。夢の中では性的なイメージが奔放にあらわれるということをのぞいても、夢は「性」をめぐる問題群を解くうえで大きな手がかりになると考えたからであろう。

アルテミドロスのこの書は、夢を、夢見る人の将来を予測する材料として位置づけているところに意義がある。我々は、「夢は『いつもお告げの準備をする預言者、疲れ知らずで物言わぬ忠告者』だと考えるべきであり、したがってわれわれは、こぞって自分の夢の解釈に専念すべき」(「自己への配慮」第一章、田村俶訳)なのである。

その点では、この書は夢占いの書と言ってもよいが、夢占いが非科学的な印象を与えるのに対して、この書があくまでも科学的な姿勢に支えられていることを強調したいのであれば、夢解釈の書といってもよいだろう。実際フーコーもこの書の扱っている領域を、夢占いではなく夢解釈であると言っている。

しかし、すべての夢が将来を予想する材料になるわけではない。アルテミドロスは夢を二つに分類している。一つは夢見る人の心や体の状態をあらわすものであり、もう一つはこれから起るであろう世界の出来事をあらかじめあらわすものである。アルテミドロスは前者を「夢」、後者を「夢幻」と呼んでいる。このうち夢解釈の材料となるのは、後者の「夢幻」のみである。夢幻は、夢を見る人の前にこれから起るであろう出来事を示すという点で、その者に将来への備えを促す。それに対して夢のほうは、夢見る人の心や体の今の状態をあらわしているだけである。

そこで、夢幻をもとにして夢見る人の将来を予測する手続が問題となるわけであるが、その場合にもっとも重要な役割を占めるのが「性」なのである。夢の中に現れる「性」的な要素を分析することによって、もっともよくその人の将来が予測できるというわけなのだ。こういうわけでアルテミドロスは、性に関する夢幻の分析に進んでいくのであるが、それを見る前に、アルテミドロスが性的な行為を三つの範疇に分類していることに注目したいとフーコーは言う。アルテミドロスによれば、性的な行為は、法律に合致する行為、法律に反する行為、自然に反する行為に分類される。この分類法をフーコーは、「全然明瞭でない分割だ」と批判しているが、当面はそれにもとづいて議論を進めている。

法律に合致する行為には、「姦通ならびに結婚、悪所通い、自分の屋敷にいる奴隷に手をつけること、下僕による手淫」など「われわれの回顧的な眼差しにとっては、きわめて異質な物事がまざりあっている」。いずれにしても「法にかなう事柄の極端な広がりというものが理解される」。反対に法に反するものは、本質的に近親相姦によって構成される。近親相姦といっても、すべてのタイプの近親相姦ではない、母と息子の近親相姦は否定されない。否定されるのは、父親による娘や息子を対象とした近親相姦である。というのも、娘の身体の中に精液を消費することは、「娘がやがて結婚して別の男のもとに父親の精液をもっていくからには、多大な金銭の損失の前触れである」からだ。一方、「母とは専門職なのであって、したがって母と関係を結ぶことは、自分の職業での成功と隆盛を意味する」。

自然に反する行為としては、「口唇による色情行為」が上げられる。これは父親による娘との近親相姦以上に、精液の浪費だからだ。このタイプの色情行為としてアルテミドロスは、自分自身の口唇のなかに自分の性器を「没入」する行為を上げているが、人はどのようにして自分の口で自分の性器をくわえることが出来るか、アルテミドロスは明らかにしていないし、それをフーコーも不思議には感じていないようだ。ともあれこの行為は、精液の浪費という視点から非難されるのであるが、同じく精液の浪費と思われる手淫については、アルテミドロスは「法に合致する行為」として、否定的には扱っていないのである。

以上三つのタイプを通じて評価の基準となっていたのは「精液を有効に使用しているか否か」というものであったが、そのほかにも評価の基準はある。それは、「誰が誰に挿入するか」ということである。「夢を見る主体(ほとんど常に男)は、能動的であるか、それとも受動的であるか、その主体は挿入し、支配し、快楽を得るものであるか。その主体は服従する、あるいは所有される者であるか。息子との、あるいは父親との性関係であれ、母親との、あるいは奴隷との性関係であれ、その問題が必ずといっていいほど蒸し返されるのである」。これが、性関係のうちに支配・被支配の契機を重視した古典古代のギリシャの議論をひきずったものだとは、容易にみてとれよう。男と女の性関係は、本来支配すべき者と支配を受けるべきものとの関係であるから自然だとされた一方、男同士の性関係は、本来支配を受けるべきでない男が、他の男によって支配されがちになるから大きな問題を含む。そうした古典古代の時代の見方が、紀元二世紀のギリシャ人であるアルテミドロスをも捉えていたわけである。この見方によれば、息子の母親との性関係の肯定的評価は、上述の理由ばかりではなく、支配・被支配の関係によっても強化されるのである。というのも、「自分を生み育ててくれた母親に対して、しかも大地や母国や都市国家のように、そのお礼として自分が耕作し、尊敬し、奉仕し、面倒を見、豊かにする、これらの義務のある母親に対して能動的立場を保っているのが見られるからである」。(同上)

しかし、精液の浪費という基準にしても、性関係における立場の能動性・受動性という基準にしても、首尾一貫して、きわめて明瞭な意図に支えられた基準とはいえない。それは、たとえば手淫に対して付与される評価を見ればよくわかる。同じく精液を浪費するこの行為について、一方では法に合致する行為として肯定的に評価しながら、他方では自分自身の口唇による行為を自然に反する行為として否定的に評価している。「アルテミドロスのテクストの中には、許容行為と禁止行為とに関する恒常的で完全な分類表を拠り所とするものは何一つなく、また、自然に属するものと『反自然』なものとのあいだに、明白で決定的な分割線を引くものは何一つとしてないのである」(同上)

ところでフーコーは、紀元後の二世紀にわたるギリシャ・ローマ文明における「性」を論じるに当たって、なぜアルテミドロスのテクストを持ち出したのか。それを改めて考えたい。アルテミドロスのテクストは、あくまでも実用を目的としたものであり、したがって「性」についての分析も、それが夢見る人の将来を予言できる限りにおいて関心の対象となったにすぎなかったが、その関心のなかには、古典古代におけるギリシャ人の性についての見方からの偏移と連続性とを読み取ることが出来る。その偏移と連続性とを抉り出すことによって、性をめぐる人々の道徳的なかかわり方の変遷を読み取ってみたい、そのような問題意識がフーコーをしてアルテミドロスの夢解釈の考察に向かわせたのではないか、そう考えられるのである。

フーコーはアルテミドロスが前提する性についてのさまざまな見方や立場のなかに、たとえば性行為について人々がいっそうあからさまに語るようになったこと、男女の間の性行為がますます価値付与の対象となるとともに、それに反比例するように男同士の性行為が価値剥奪されていくこと、などを見る。こうした性についての人々の見方の変化は、古典古代とキリスト教の時代とを結ぶ過渡的な時代としての帝政ローマ時代における性現象を俯瞰する上で、多くの手がかりを与えてくれる、フーコーはそのように考えて、まずアルテミドロスの夢解釈の検討から議論を始めたのだろうと思われるのだ。


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