知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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レヴィナスを読む:思想と批判


レヴィナスは西洋哲学史上はじめて他者の問題に正面から向き合った。レヴィナス以前の西洋哲学は、他者の問題を捉え損なってきた。他者を主題的に論じた哲学者としてはフッサールとハイデガーがあげられるが、フッサールにおいては他者とは自我の延長としての他我のことである。そんなものはレヴィナスに言わせれば本当の意味の他者ではない。一方ハイデガーのほうも共同現存在という表現で他者の問題をとりあげているが、これも本当の意味の他者とは似てもつかない代物である。要するにこの二人に代表される西洋哲学は、その歴史全体を通じて他者の問題を正当に取り上げることがなかった、というのがレヴィナスの主張である。しかしレヴィナスによれば、他者の問題に向き合えない哲学は、本物の哲学ではない。そんなものはいまや存在している意味が無くなったといえる。

フッサールの議論は、およそ西洋哲学が他者を論じる場合にとる典型的な形を示している。それは自我をすべての根拠として、そこから世界を説明する。他者も例外ではない。他者とは自我の鏡に映った他人の陰のようなもので、あくまでも私の自我の付属物でしかない。私が存在しなければ他者も存在し得ない。他者は私というフィルターをとおして意味づけをされる。他者は私によって強制的に意味づけされてはじめて存在の根拠をもつのであるから、これを一種の暴力だと言うことができる。つまり他者は私とはまったく別の存在として私とは無関係にまた平和に存在できるものではなく、私によって強制的に意味づけされて始めて存在意義を持つことのできるものなのである。

これに対してレヴィナスの考え方は、「他人を軽視し無視することの彼方に、いいかえれば他人を評価或いは把握し、理解し認識することの彼方に赴くこの積極的な営み」を重視する。レヴィナスはそれを形而上学という言葉で呼ぶ。したがってレヴィナスの形而上学概念は西洋哲学の常識とは全く異なっている。それは他人をそのあるがままに受け入れることを目指す学なのだ。

レヴィナスの言う他者には、私とは全く異なった存在としての別の人間の外に神も含まれている。というより、神こそが私にとっての究極の他者なのであり、私のうちにではなく、私とは全く無関係なところで存在の根拠を持つものなのだ。したがってレヴィナスの他者論はいずれ、神への賛嘆の辞に集約されていくはずだ。

レヴィナスによれば、本物の他者は、私の存在とは無関係に存在する。私が有限な全体性とすれば、他者としての神は無限である。レヴィナスの主著の表題「全体性と無限」はこうした事情をあらわしている。つまりその本は、全体性としての自分と無限である他者=神との関わりについて語ったものなのだ。

レヴィナスの哲学は形而上学を目指していると言った。レヴィナスの言う形而上学とは、他人の倫理的な性格をもっぱら論題とするものだ。倫理的なと言うわけは、他人を認識の対象として捉えるのではなく、私との間で人間同士のかかわりあいを演じるパートナーとして見るからだ。単に認識としての対象なら、そこに倫理的な問題の生じる余地はない。ところが私にとってのかけがいのない存在であって、私の運命がそこにかかっているようなものなら、それは倫理的な色彩を帯びる。他人は私にとって倫理的な存在なのだ。本物の他人をテーマとするレヴィナスの思想はだから倫理的な思想だと言ってよい。あるいは倫理学と言い換えてもよい。

いま、他者を倫理的な存在だと言ったが、後期のレヴィナスは、この存在と言う言葉に強いこだわりを見せるようになり、存在からの超脱を論じるようになる。「存在の彼方へ」と題した第二の主著は、この存在からの超脱をテーマにしたものだ。レヴィナスが存在からの超脱をめざすわけは、存在という概念が、人間の世界認識にかかわるものであり、その点で、他者の全面的な受容には相応しくないと考えたからであろう。他者をありのままの他者として全面的に受け入れるためには、その存在に拘っていてはならない。存在とは別の仕方で他者に向かい合わねばならない、というのがレヴィナスの後期思想の中核をなす思想だった。

レヴィナスはまた、自己のユダヤ性を強く意識していた思想家である。彼がいう人間とは、ある意味、イスラエルの民をさしている。そういう立場からは、イスラエルの民に敵対する者は人類の敵と言うような扱いをされることになる。そういう意味では、レヴィナスはかなり筋金入りのシオニストとしての側面をも持っている。そんなレヴィナスの複雑に絡み合った思想を、丁寧に読み解き、的確な批判を加えたいと思う。



レヴィナスを読む:倫理と無限から
Il y a:存在のざわめき
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ある(Il y a):レヴィナスを読む
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