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岩田靖夫「神の痕跡」を読む


岩田靖夫はギリシャ哲学が専門のようだが、レヴィナスにも関心があるようで、レヴィナスについての本も書いている。「神の痕跡」と題した本は、副題に「ハイデガーとレヴィナス」とあるとおり、ハイデガーとレヴィナスとの関連が主なテーマだ。この本は、ハイデガーとレヴィナスとの関連を見るには必読の書だと、レヴィナス学者の熊野純彦が書いていたので、その二人に深い関心を持つ小生は、是非もなく読んでみる気になったものだ。

この本を岩田は、ギリシャ専門家らしく、ギリシャ哲学への言及から始めて、ハイデガー、レヴィナスと続け、最後は自分自身の宗教観を披露して一冊を閉じるという構成をとっている。いまどき、宗教を自分自身の問題意識として提出するのは、日本人学者としては非常に珍しいと感じたが、岩田はもしかしたらクリスチャンなのかもしれない。

ハイデガーについての岩田の言及は批判的なものだ。それもレヴィナスのハイデガー批判を踏まえている。ということは、岩田はレヴィナスの眼を通じてハイデガーを読んだということだろう。そのハイデガー批判の要点は、二つある。一つは存在の主観化であり、もう一つは倫理的関心の欠如もしくは排除である。存在の主観化とは、世界の存在性を現存在の存在了解によって基礎づけることをいい、それこそがハイデガー哲学の画期的な要素だとの評価もあるわけだが、岩田は逆にそれを批判するのである。ハイデガーの存在論は、あまりにも主観主義的・精神論的で、その意味ではカントの認識論やヘーゲルの精神論とあまり異なるところはないというのである。

倫理的関心の欠如あるいは排除ということに関しても、存在の主観化とかかわりがある。存在の主観化とは、世界を現存在という名の、孤立した存在者を起点として捉えるということを意味するのだが、それが倫理的な領域に適用されると、孤立した個人の視点から倫理を考察することになる。しかし、倫理とは本来人間相互の関係において成立するわけだから、個人の枠にとどまっていては、倫理についてまともな考えが展開できるわけはない、と岩田はハイデガーを批判するわけである。

存在の主観化といい倫理的関心の欠如あるいは排除といい、その原因はハイデガーが他者の存在を無視していることにあると岩田は指摘する。「ハイデガー哲学は徹底的に自己の存在に固執し、そこで世界の意味もしくは無意味を完結させようとした哲学なのである」というわけである。そしてそれに疑問符を突き付けたのがレヴィナスだったとして、レヴィナスの他者論に入っていくのである。

レヴィナスの他者論の論じ方にはいろいろな切り口があると思うが、岩田はそれを神とのかかわりにおいて論じている。岩田にとって、レヴィナスのいう他者とは畢竟神なのであり、その他者を論じるレヴィナスの哲学は、ある種の神学ということになる。「レヴィナスにとって、哲学の問題は煎じ詰めればただ一つしかないのである。それは神について思索することなのである」

もっとも神を前面に打ち出して、もっぱら神についてだけ語り出せば、それはもはや哲学とは言われなくなる恐れがある。哲学はやはり神学とは違うものなのだ。だから、哲学の領域を踏み外さないようにして、神を語る必要がある。それには、とりあえず他者という形で現われるものを、神の形代というような意味合いに位置づけ、その他者と自己との関係に注目すればよい。そうレヴィナスは考えて、神という名を表には出さずに、他者と自己との関係について、論じていくのである。

他者の基本的な意義は、それが自我の支配に服さず、自我の全体性から逸脱する、あるいは超越していくという点にある。ハイデガーを含めた従来の西洋哲学は、自我を世界の中心に位置づけ、その自我によって世界を意味づけて来た。そういう考え方にあっては、すべての存在者は、いわば自我の被造物のようなものとして位置付けられ、自我の全体性の中に統合されるほかはない。つまり自我に全面的に依存させられるのである。しかし、本来他者というものは、そういうものではない。他者は自我に統合されることを拒む。それをレヴィナスは絶対的な他者性というような言い方をしているが、要するに自我との間に無限の裂け目を介したもの、それが他者だというのである。

この他者のイメージが、神のイメージに基づいていることは、容易に見て取れるが、レヴィナスはとりあえず神という言葉を棚上げして、隣人としての他者の他者性について語る。その語り方は、西洋哲学の伝統においては、それまでなかったものだ。先ほども触れたように、西洋哲学の伝統は、それを破壊したと評されるハイデガーも含めて、他者の問題に正面から向かい合ったものはなかったのである。その他者の問題にレヴィナスは正面から取り組んだ。そこがレヴィナスの、哲学史におけるもっとも大きな貢献だと岩田はいうわけである。

レヴィナスの哲学を他者論として捉える見方は内田樹や熊野純彦などにも共通した見方であり、またレヴィナス本人もそれを否定しはしないと思うが、岩田の特徴は、レヴィナスの言う他者を神だと断定するところにある。そのあたりは岩田の岩田らしいところだと思う。内田の場合には、他者は女としてあらわれたり、また熊野の場合には、隣人としてあらわれたりするわけだが、レヴィナスのいう他者が神のイメージに基づいているというのは、レヴィナス本人も認めるところだろうと思う。




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