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レヴィナスの他者論


西欧哲学におけるレヴィナスの意義は、他者を主題的に論じたことだ。その論じ方は極めて徹底していた。レヴィナス以前にも他者を論じたものはいたが、それらは他者を私によって構成された対象の一種として見ていた。初めて他者を本格的に論じたといえるフッサールにおいてそうだったし、また、他者を共同現存在として、私とともにすでにこの世界に投げ出された所与であるとしたハイデガーにおいても、他者が存在の一類型として、したがって結局は私によって構成されたものとして捉える限りにおいては、やはり他者をそれ自体として絶対的な存在者とはみていない。ハイデガーのいう存在とは、私の思考から生み出されたものなのであり、その限りで私の意識による構成の産物だからだ。

これらに対してレヴィナスのいう他者とは、私とは絶対的に異なるものなのである。つまり絶対的に<他なるもの>である。「<他者>は<私>に加算されることがない。『きみ』あるいは『私たち』と私が語るような共同体は、『私』の複数形ではない。私ときみとは、共通する一つの概念に属する個体ではないのである」

他者は私の認識に還元される存在者ではない。他者は私の認識の外部にあふれ出ている。たしかに私は、他者を私の認識の対象とすることで、「<私>との関係において他なるものについて、その他性そのものを宙吊りにする可能性」を持ってはいるが、その可能性を実現しようとした時には、他者は他者ではなくなってしまう。他者とは、私の認識の対象などではなく、私とは全く異なった、絶対的に他なるものなのだ。そのような本質を持つ他者との私の関係は、認識とか観相ではありえない。それは、レヴィナスによれば渇望の相手である。他者とは私が認識あるいは観想するものではなく、あくまでも私とは絶対的に隔絶し、それゆえ私が渇望せざるを得ないものなのである。認識によって私は対象を所有することとなるが、他者は所有されえない。それは渇望されるものなのである。

渇望は欲求とは違うとレヴィナスはいう。欲求は欠乏を前提としている。飢えという欠乏が食べるという欲求を生み出す。渇きが水への欲求を生み出す。性的な欠乏感がセックスへの欲求を生み出す。渇望の場合にはそうではない。私が他者を渇望している時に、私は自分のなかに欠乏を感じているわけではない。むしろ充実感を抱いている場合の方が多いのである。私は、自らが充実しているのを感じながら他者を渇望する。その渇望は、欠乏ではなく豊饒に裏打ちされている場合が殆どである。渇望とは豊饒のもたらす余剰のようなものなのだ。レヴィナスは言っている。「<渇望>は、すでに幸福なものである存在が有する渇望である。渇望とは幸福なものの不幸、贅沢な欲求なのである」と。

私はなぜ他者を渇望するのか。それは他者が私から超越した存在だからである。超越した存在は、そのものとしては、私のうちに同化されない。つまり私によって所有されることがない。たしかに私は、他者を認識の対象とすることで、私のうちに同化し、そのことによって所有することができるかのように思える場合もあるが、その時には他者は他性を失っている。私に同化され所有された他者は絶対的な意味での他者ではない。他者とは、私からは絶対的に分離した存在者なのであり、その意味で、超越したものなのである。私からはるかかなたに超越したものを、私は渇望する以外になしようがないのである。

他者はだから、私の前に開示されるのではなく、啓示される。開示とは、私の知的な認識にさらされるということである。しかし開示されたときには他者は他者ではなくなっている。他者が他者のままで私の前に現われるのは、啓示という形においてである。啓示とは宗教的な概念であって、超越したものが人間の前に姿を現すことを意味するが、レヴィナスはこの言葉を使うことで、他者の宗教的な意味合いをほのめかしているのだと思う。他者は神と同じく、みずからを啓示するものであって、人間の知的能力の前に開示されるものではないのである。

他者が私の前に現われる時、それは顔という形をとる。顔が他者の他性を代表するようなかたちで私の前に現われる。この顔をめぐる議論はそれ自体として面白いものだが、ここではとりあえず、顔が他者を視覚化するものとしてイメージしておこう。その顔は、私に向って語りかける。それに対して私が応答する。この語りと応答の関係が、私と他者との基本的な関係である。この関係から倫理が生じる。倫理とは、私と他者との関係をあらわす概念なのだ。

顔は言葉を語る。言葉の本質は呼びかけにある。他者は言葉を通じて私に呼びかける。何を? 言葉を語ることへとである。レヴィナスはいう。「認識の対象はいつでもできあがったものであり、すでになされたことであり、踏み越えられてしまったものである。呼びかけられた者は、これに対して、ことばを語ることへと呼び出され、その語られたことばはみずからのことばを『護り』、現前している。ことばが語られるこの現在は、持続のなかで神秘的なかたちで動きをとめられた瞬間からなるのではない。諸瞬間を護り、それに呼応することによってなりたつものである。絶えることのないこの引き受けなおしが現在を産出する。それが現在の現在化、すなわち生なのである」

多少わかりづらい言い方だが、要するに他者との関係の本質は、認識ではなく語り合いだということにある。私は他者と語り合うことで、倫理的な関係を築ける。その関係においては、私と他者とは互いに絶対的に分離している。私と他者とは、種を共通する差異などではない。絶対的に異なるものである。その間にはいかなる共通項もない。他者は私にとって絶対的な他性を帯びており、したがって私からは超越した存在なのである。

この語り合いにレトリックが入り込む余地はない。「子どもに教育するような、あるいは洗脳する場合のような語りはレトリックなのであって、それは隣人を策略にかける者の立場にたつものである・・・レトリックの特別な本性は、承諾の自由を買収しようとするところにある。レトリックは、だからこそすぐれて暴力であり、言い換えるなら不正に他ならない」

語りと応答のなかで語られるのは、レトリックではなく、互いに呼びかけあうことである。その呼びかけは、私と他者とが互いに絶対的に隔絶しているその分離をなにがしか埋めようとするもののようである。その分離は、私と他者とが互いに異邦人であることに根差している。私と他者とは互いに自由であって、その自由な立場から互いに呼びかけあうのである。レヴィナスはいう。「自由な存在だけが、たがいに対して異邦人であることができる。かれらに『共通』な自由こそが、まさにかれらを分離する」

語りは顔によってなされる。現前する顔が私に語り掛けるのである。その「顔はそれ自身で存在する。なんらかの体系に関係することで存在するのではない」。つまり顔は、概念として存在するのではなく、「それ自体として存在する・・・それゆえにこそ私と他者とのあいだには、レトリックを超えた関係が存在することとなる」。私と他者とは互いに顔として語り合うことで、なにか共通のものを生み出す。言葉がその共通のものに通路を開くからである。「ことばを語ることは世界を共通なものとすることであり、共通の場を作り出すことである」からである。

このようにレヴィナスの他者論は、他者を私とは絶対的に異なった異邦人としてのイメージから出発しながら、その互いに異邦人である他者と私を結ぶきずなを言葉に求める。言葉こそが、レヴィナスにあっては、もっとも本源的なものなのである。




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