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レヴィナスにおける真理と正義


レヴィナスは真理と正義を一体のものとして論じる。これは一見して奇怪にうつる。西欧の哲学的伝統においては、真理とは認識論上の概念であり、正義とは倫理的あるいは政治的な概念であって、この二つが同じ土俵の上で論じられることはなかったからである。それをレヴィナスは同じ土俵に据えたうえで、しかも一体のものとして論じるのである。

レヴィナスの用意した土俵とはどのようなものか。私と他者との関係である。その関係は絶対的な分離という形をとる。私と他者との間には共通項のようなものはない。私がある共通項によって他者と結ばれ、そのことで全体性のうちに包摂されることはない。他者はわたしにとって絶対的に他なるものであり、私というものから超越している。そうした分離において始めて真理が生成してくるとヴィナスはいう。「分離が存在しなければ真理はありえなかったであろう」(「全体性と無限」熊野純彦訳、以下同じ)と。

レヴィナスはさらにいう。「真理が生まれるのは、他なるものから分離された存在が他者のうちに沈みこむのではなく、他者にことばを語る場においてである。ことばは、たとえ点的な接触であったとしても、他者に触れることがない。ことばが他者に到達するのは、その関係のまったき正しさにおいて他者に呼びかけ、他者に命令し、あるいは他者に服従することによってである。分離と内部性が、真理とことばが、無限なものの観念の、あるいは形而上学の諸カテゴリーをかたちづくることになる」

つまりレヴィナスは、絶対的に他なるものとの間で語られることば、それは私と他者との分離を前提にしているわけだが、このことばの語り合いのなかから真理が生成してくると考えるわけである。こうしてみると、レヴィナスの真理概念は、理性による対象認識ではなく、私と他者との関係についていっていることがわかる。真理とは絶対的に分離しあった人間同士の関係の一様相、それも決定的に重要な一様相なのだ。それゆえ真理は、倫理的あるいは道徳的な概念だということになる。レヴィナスはそれを、<社会性>ということばで言及している。「社会性ことが真理の場である」と。

レヴィナスが真理概念をこのように位置付けるのには、既存の哲学への強い批判意識がある。既存の哲学においては、真理概念は認識論の問題だった。認識が対象を正しくとらえることに真理の内実があった。真理は人間の理性、つまり人間のもつ知的能力にとってのバロメータのような位置づけだったわけだ。しかし、人間の知的能力である理性によっては、人間の本来的なあり方は捉えられない。人間というものは、理性だけで生きているわけではない。理性は無論、生きる上で不可欠なものだが、それだけでまともな生き方ができるわけではない。何故なら人間は自分一人だけで生きているわけではなく、他者と共存しながら生きているからだ。だから他者を正しく理解しなければならない。そうしなければ人間というものの本質を見失う。ところが既存の哲学はこの本質を見失っているのである。

レヴィナスは、既存の哲学をハイデガーで代表させて、ハイデガーを厳しく批判することを通じて、自分の真理概念を解明してゆく。ハイデガーは真理を「存在がかくれなくあらわれること」だとした。これは一見、認識論ではなく存在論の言葉のように見える。「存在がかくれなくあらわれる」とは、存在者の属性であって、認識の作用ではないように見えるからだ。しかしよく検討すれば、「存在がかくれなくあらわれる」のは、私の理性の働きのなかであって、私の理性とはかけ離れた場で現われるわけではない。そんなわけでハイデガーは、真理の問題を従来の認識論から解放したと言ってはいるが、その実、言葉を言い換えただけで、言っていることは何も変わらないということになる。

こうしたハイデガーのやり方をレヴィナスは、「真理から自由なはたらきという性格を奪いとり、<私>と<私でないもの>との対立が消失してしまうところ、つまり非人称的な理性の働きのただなかに真理を位置付ける」といって批判している。

そうではなく、真理とは「<私>と<私でないもの>との対立のなかから生成してくるとレヴィナスはいうのである。その対立のなかで、「<他者>の裁きをかいして<他者>を迎え入れること」、それが真理であるというわけである。

重ねていうが、レヴィナスにとって真理とは、対象認識の問題ではなく、<私>と<私でないもの>との関係から生成してくるものなのである。<私>と<私でないもの>との関係は、レヴィナスによれば倫理的あるいは道徳的な関係であった。そうしたことから真理とは、倫理的あるいは道徳的な概念だということになる。

この倫理性あるいは道徳性が、真理を正義と結びつける。正義とは優れて倫理的・道徳的な概念だからだ。レヴィナスのユニークさは、従来もっぱら政治的なコンテクストにおいて論じられてきた正義の概念を、哲学の場に持ち出し、しかも哲学の中心概念たる真理と一体のものとして論じたことにある。だが、その論じ方は、正義も又真理同様、<私>と<私でないもの>との関係から生じる倫理的・道徳的概念であるとほのめかすにとどまり、深く立ち入った分析は展開していない。しかし、正義を哲学の問題として持ち出したことには、それなりの意義を認めねばならないだろう。




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