知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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レヴィナスと死


大江健三郎の短編小説に「死に先立つ苦痛について」と題されたものがある。ほとんどの人間は死を恐れるが、死そのものを体験することはない。人間が体験するのは死に先立つ苦痛である。その苦痛が我々人間に死についての恐れを抱かさせる。しかし死そのものは恐れる必要はない。何故なら、我々に死が訪れるときには、我々はもはや生きてはいないのだし、我々が生きている間は、我々は死んではいないからだ。

ヘレニズム時代のギリシャの高名な哲学者が提示したとされる死と苦痛に関するこの考えを、大江は文学的なやり方で敷衍したわけだが、その同じ考えを、レヴィナスは哲学的なやり方で敷衍する。死と苦痛をめぐる議論は、長い西欧哲学の伝統のなかでも、もっとも中核的な問題だといわんばかりに。

レヴィナスはいう、「自由にとって最高の試練は死ではない。苦しみである」(全体性と無限)熊野純彦訳、以下同じ)と。

死が私の自由を制約することはない。それはエピクロスが言ったとおりだ。私の自由を制約するのは死に先立つ苦痛なのである。エピクロスはその苦痛について述べることはなかったが、それはエピクロスが快楽の思想家であって、苦痛の思想家ではなかったからだろう。ところがレヴィナスは、なによりもこの苦痛にこだわる思想家だった。それはレヴィナスの経験がエピクロスのそれとは異なることから来る相違だと思う。

人は死についての観念を他人の死から学ぶ。その死は、「無への移行として、あるいは新たな装いのうちに繰り延べられた、もうひとつの生への移行というしかたで解釈されている。死は存在と無との二者択一のもとで考えられているわけである。この二者択一を信じさせているのは私たちの隣人の死なのであって、隣人は実際経験的な世界のうちでは現実に存在することをやめている。隣人の死がこの世界で意味しているのは消滅であり、あるいは出発である」

レヴィナスがここで出発といっているのは、ユダヤ・キリスト教的な観念にもとづいたものである。ともあれレヴィナスがここで言っていることは、人間は自分自身の体験からではなく、隣人の死を通じて死の観念を得るということだ。

しかしそれで本当に死を理解したことになるだろうか。そうではあるまい、というのがレヴィナスの立場である。私はたしかに隣人の死を通じて死の意味を学ぶのではあるが、その死は隣人を含めた人間存在一般にとっての普遍的な観念であって、その普遍的な観念を私に当てはめてみても、私自身の死の意味を納得できるわけではない。私にとって私自身の死は他人の死から類推できるようなものではなく、私だけの特別で個人的でひめやかな出来事であり、私はそれを私自身の内部から把握しなければならない。

レヴィナスは言う。「自分に固有な死と私との関係は、存在と無という二者択一の、どちらの項にも算入されないカテゴリーのまえに私たちを立たせることになる。この究極的な二者択一を拒否することのうちに、私の死の意味が含まれているのである。私の死は他者たちの死から類比によって演繹されるものではなく、私がじぶんの存在についていだくこともある怖れのうちに書きこまれている」

レヴィナスは、私自身の死の意味を私が納得するのは、他人の死からの類推からではなく、私自身の体験からでなくてはならないというわけである。しかし私は私自身の死を体験できないのではなかったか。たしかにエピクロスの言うとおり、私は私自身の死を体験することはできない。私が体験できるのは、私が生きていることにともなう事柄だけだ。その生きている事柄の中で、死の意味を体得させるものがある。それは切迫する死に直面しての脅威、あるいは苦痛だとレヴィナスはいう。その脅威あるいは苦痛を通じて、私は死の意味を納得するのである。死の観念、死についての知が、脅威や苦痛の原因となるのではない。脅威や苦痛を通じて死の意味を悟るのだ。

レヴィナスは言う。「死についての知が、脅威を定義するのではない。死の切迫のうちに、つまり死が近づいてくる、還元し得ない運動のうちに脅威が本源的に存するのであって、なおそう表現しうるとすれば、そこで『死についての知』が表明され、はっきりと発言されるのである」

もっとも、私が私自身の死を体験できないという事実は厳として有効である。「最後は隠されている。私の死が到来するのは、どのようなかたちであれ、私がじぶんの権能を行使することのできない瞬間からである」

それでも私が私自身の死を納得するのは、死に向って存在するなかで、なおも自由な時間を有しているからである。その自由な時間は、一方では死を繰り延べるのでもあるが、また切迫する死について、その意味のみならず、私がまさに受け入れるべきことがらとして迫ってもくるのである。

「時間的に存在するとは、死に向って存在していることであると同時に、なおも時間を有しており、死に抗して存在していることである・・・自由であるとは、暴力の脅威のもとでじぶん自身が失墜するのを避けるために、いくばくかの時間を有していることなのである」

死に向って存在しながら、私は自由な時間を介して、死の意味を納得する。その納得は抽象的な知を通じてではなく、具体的な脅威あるいは苦痛を通じてもたらされる。私は、死について怖れている限りは、それを未来のこととして繰り延べているにすぎないが、切迫する死の脅威は、死をまさに現在のこととして到来させる。私は、死への脅威を通じて死を体感するのである。

レヴィナスは言う。「怖れの場合はただ未来のことがらであった意思の否定、私の権能を拒絶するものの切迫が、苦しみにおいては現在のうちに挿入される。そこでは他なるものが私をとらえ、世界が意思に作用し、意思に接触する。苦しみにあっては、実在が意思の自体的なありかたに働きかける。意思は絶望して、他者の意思への全面的な服従へと反転する。苦しみのうちで意思は、病に打ち負かされる。怖れにあって死はなお未来のものであり、私たちからは隔たっている。苦しみの場合、これに対して、意思を脅かす存在の極度の近さが、意思のなかで実現されてしまうのである」

ここでレヴィナスが描いている死のイメージは、多分に強制された死、暴力的な死であるようだ。強制された暴力的な死ということで言えば、レヴィナスはその生々しい例をありありと見た。ナチスによるホロコーストのことである。そのホロコーストを通じて、数百万のユダヤ人が強制された暴力的な死を死んでいった。レヴィナスの家族もその犠牲になった。だからレヴィナスは死を、抽象的な知のことがらとしてではなく、面前に具象的に展開されたなまなましい出来事として受け止めたのである。

ともあれ、死をもたらすものと、死を強制されるものとの暴力的な関係についてのレヴィナスの議論は、ヘーゲルからサルトルに引き継がれた、あの主人と奴隷のモデルを想起させる。死をもたらすものは、相手を物のように扱う一方で、相手の意思が働いていることを望む。相手の意思が消滅していては、本当の意味で相手に苦痛を与えることは出来ないからだ。そのようにして、死をもたらすものと死を強制されるものとの関係が反転する。

レヴィナスがなぜ、そんなことに拘ったかといえば、それはやはり、死んでいく者の人間としての尊厳を強調したかったからだと思う。人間というものは、一人ひとりがかけがいのない存在なのだ。

レヴィナスはいう。「<私>とは特権的なものであり、あるいは選ばれた者なのだ。存在のうちで法の直線を踏み越えてゆく唯一の可能性であること、言い換えるならば、普遍的なもののかなたに位置を見出すただひとつの可能性であることこそが、<私>であるということである」

それゆえにこそ、人間は死んでしまってはもともこもないということになる。レヴィナスは、マクベスが絶望した理由は、自分が死んだ後でも世界は残ることを知ったからだというが、そのマクベスの絶望には、人間として存在することの深刻な意味が隠されているようである。




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